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【長編小説】真夏の死角65 アラブ王族も参加する高校野球賭博の悦楽

「小谷一郎が高校野球賭博のギャンブリングジャンキー」
 田久保はアイデルバーグのその言葉に仙台国際グローバル大学を巡る犯罪の深い闇の一端を覗いた思いがした。

「私も立ち会ったことがありますよ。野球賭博に」
 アイデルバーグはにこやかな笑みを浮かべてそう田久保に語りかけた。

「あなたは仙台国際グローバル大学の特別顧問だ。その絡みでそういうことにも首を突っ込んでいたわけか」

「おっと、私はもちろん賭博なんてやっていませんよ。だから、田久保警部殿になにもやましいことなどありません」
 アイデルバーグがおどけて両手をバンザイしてみせた。

「もちろんイスラエルの秘密諜報員モサドのエリートであるあなたが、つまらない野球賭博などやるとは思っていませんよ、そんなところであなたが尻尾を出すわけがない」
 田久保としては軽口を皮肉交じりにたたいたつもりだったが、アイデルバーグは生真面目な顔を田久保に向けてよこした。

「どうした。それとも何かやましいところでもあるのか」

「たかが野球賭博……ですか」

「ん?なんだ、たかが野球賭博と言っては問題があるのか」
 田久保はアイデルバーグが何を言わんとしているのかその青い瞳の中に探ってみたが、分からなかった。

「田久保さんは野球賭博のやり方をご存知ですか」
 依然としてアイデルバーグが生真面目な顔を崩さずにそう言った。

「野球賭博のやり方……」
 田久保は虚をつかれたような顔をして呟いた。そういえば、単純にどっちのチームが勝つか負けるかの丁半勝負のようなものしか考えていなかったが、実体は違うのだろうか。

「いや、やり方など知らないが、どっちが勝つかに賭けるということなんだろう?それとも違うのか」
 田久保はそれ以外思いつかず、アイデルバーグにそのまま訊いてみた。

「日本の野球賭博、特に高校野球賭博は和歌山県の老舗任侠団体、三岩組によって作られたと言われています。三岩組は明治時代から続く博徒で、関西の日本最大の暴力団なんかとは歴史がまるで違います。といっても、今ではその関西の日本最大の暴力団の客分となっていますけどね」

「三岩組……」
 警察組織では組織暴力団は警視庁を始めどの県警でも第四課が担当するが、田久保はずっと捜査一課畑だったので、暴力団組織については疎かった。

「三岩組の作ったシステムというのはどんなものなんだ」

「ギャンブルの世界では、文字通り世界一だと言われています。国際的にはブッキング、賭け事のメッカはイギリスとされているのはご存知だと思います。有名なブッキングメーカーはイギリス王室ともつながりがあり、競馬を始めとして、あらゆる勝負事を賭け事にしています。そのイギリスのブッキングメーカーが賭け事の殿堂中の殿堂と認めているのが三岩組の編み出した日本の高校野球賭博システムなんですよ」
 アイデルバーグはやや厳しい表情を緩めながら田久保に説明した。

「殿堂中の殿堂……」

「もっとも、違法賭博ですからこのことを知っているのは世界の闇業界の紳士だけですけどね。国際問題に発展しかねませんので詳しくは申し上げられませんが、アラブ諸国の王族も毎年夏になると日本の高校野球賭博を楽しんでいますよ」

「アラブの王族が日本の高校野球賭博を楽しんでいる!」
 田久保が声を上げそうになる前に、牧村慶次が素っ頓狂な声を上げた。じっと話を一生懸命に聞いていたらしい。
 隣りにいる美姫が「シッバカ慶次!だまってろ!」と思わず大声で叫んでしまい、アイデルバーグや澤田景子に苦笑されて真っ赤になっていた。

「簡単には説明できないんですが、あえて簡単に説明すれば、ハンデの付け方が芸術的で、人間の煩悩の奥の奥を純度の高い麻薬のように刺激し続けるんですよ。麻雀なんて、三岩組の高校野球賭博システムに比べたら児戯に等しいです」
 アイデルバーグは牧村慶次の素っ頓狂な声で崩した顔をややもとに戻して、うなずきながらそう言った。

「麻雀が児戯に等しい……そんなに刺激的なのか。その三岩組の高校野球賭博システムは……」

「ハンデの付け方が絶妙なのです。例えば、勝った負けたという単純なものではなく、何点差で勝った、あるいは何点差で負けたかによって、配当が変わってきます。確率変動するんですね」

「確率変動……」

「そう。そして、ホームランの数がどれだけ出たか、これによっても変わります。出なかったかによっても変わる。例えば澤田明宏投手のようなすごい投手の場合、普通はホームランなんて1本も出ないわけですから、ホームランが1本出る、というブッキングをした者は全員損をするわけです」

「そうか……確率変動……。一瞬一瞬のゲームの展開……。それこそ、ボールひとつストライクひとつ、アウトひとつ、ダブルプレーひとつ、トリプルプレーならさらに確率変動で掛け金の配当が跳ね上がる……。満塁ホームランなのかソロホームランなのか。二死満塁サヨナラの場面なのか……。ゲームの一瞬一瞬で億単位の金が確率変動する。これは確かに麻雀なんて児戯に等しい……」
 田久保は驚きを隠せずに呟いた。

「夏という最高のドラマ。プロ野球のように間延びしたシーズンではない。人生をかけて若者がもうこれで死んでもいいというほど、己のすべてをなげうって戦う最高の舞台。こんな一世一代の舞台だからこそ、この刹那の賭け事はまるで神の采配のように人間の最も深奥の部分を揺さぶるのです。金は確かに大きな金額が動く。しかしそれだけではない、甲子園のドラマそのものが巨大なマネーと一緒になって、高校野球にキチガイじみた魅力を与えるのです。断言しますが、競馬やルーレットなどどんな競技よりも、日本の高校野球賭博を愛している人間は、高校野球という競技そのものを愛して熱狂していますよ」

 ここでアイデルバーグは言葉を切って、ギラリと挑発的な目を田久保に向けてきた。
「しかし、もしも全員が澤田明宏は1本もホームランを打たれない方に賭ける中、たった一人だけが1億円、ホームランを打たれる方に賭けたとすると……」

 捜査四課ではない田久保でも、犯罪の匂いには敏感だ。田久保はアイデルバーグが何を言わんとしているのか瞬時に見抜いた。

「澤田明宏が打たれる方に賭けた人間は、総取りというわけか」

「そうですね。誰も賭けていない時には、胴元が賭けた金額の10倍を支払う規定になっています。だからこの場合は澤田明宏が1試合で1本ホームランを打たれると10億円の金が賭けた人間の懐に入るわけですね」

「胴元が支払いを担保しているわけか……」

「その通りです。先程申し上げたように、日本の甲子園大会にはアラブの王族を含めた全世界の大富豪が莫大なお金をベットしています。1億と仮に言いましたが、澤田明宏がホームランを打たれるかどうかにいったいどれくらいの金が動くと思いますか。澤田明宏クラスの人間だと百億ですよ。そして……」

 アイデルバーグが次の言葉を言おうとしたときにそれを田久保が遮った。

「そして……。絶対に打たれるはずのない澤田がもし打たれたら。そしてそれは偶然などではなく、八百長によって澤田がホームランボールを打者に投げ込んだとしたら……」

「確実に100億の10倍。1000億がその人の懐に入りますね」
 アイデルバーグが静かに笑った。

「澤田明宏のたった一球……。たった一球澤田明宏がマウンドの上で誰にも気づかれないように、わずかにコントロールを甘くして打者からは死角となって見えない魔球と言われるその球を、渾身の振りをして手を抜いた抜け殻の球として打者に投げ込んだら……」

「ホームランボールは1000億円となるわけです。すべての鍵を握るのが澤田明宏投手というわけですね」

「澤田はそんな八百長なんてやるわけがない!いい加減なことを言うな!」
 牧村慶次が今度は立ち上がって怒鳴り声を上げた。

 アイデルバーグはゆっくりと顔を牧村慶次に向けた。その後ろで美姫が思ってもみない成り行きに肩を震わせていた。

「彼の試合のスコアブックを点検してご覧なさい。ありえないような場面でホームランを打たれていますよ。もっとも天才澤田明宏投手のことです。絶対に最終的に試合には勝っています。だから、そのことをとやかく言う人はいません。しかし……」

 アイデルバーグの「しかし……」を遮って、またも田久保が声を出した。今度は田久保自身も興奮して声がうわずっている。

「しかし、三岩組の賭博システムでは、単純に勝ち負けだけではなく、ホームランを何本打たれたか、そのときにランナーは何人いたか、などの細かいブッキングがなされている。だから最終的に試合に勝っていても、途中ホームランを打たれていれば、澤田明宏は立派にバレずに八百長に加担できる。それに、その三岩組の賭博システムがもし、ホームランによって何点が入ったか、カウントはワンボールなのか、ワンボールワンストライクなのか、そういう細かいブッキングにも対応しているとしたら……」

「さすがは田久保さん。私の簡単な説明で、この三岩組の野球賭博の仕組みをすべて理解したようだ。そうです、その時の打者のカウントによっても勝ち負けが変わってくるんですよ。例えば、3ボール2ストライクのフルカウントで打たれた場合にのみ、ホームランは賭けとして成立するなどね……」

「つまり、澤田明宏ならば、テレビ中継など日本中の野球マニアや専門家が目を皿のようにして見ている衆人の監視の中誰にもバレないようにして、フルカウントにして、最後わずかに甘く入る魔球を失投することもできる。緊迫したゲームの中で誰にも気が付かれずに都合よくフルカウントにして都合よく自分の魔球をわずか数センチストライクゾーンに失投させるなど、人間業ではできません。試合のすべてを神のように読み切り、神のように技術をコントロールできる澤田明宏でないと無理ですね」

 田久保はなぜ、澤田明宏が三岩組のシステムにとって必要だったのか、はっきりと分かってしまった。

「その通りです。複雑で芸術的と言ってもいい三岩組の野球賭博システムを逆手に取って、それを八百長にするためには、天才澤田明宏の才能が不可欠なんですよ。勝てば良い、負けなければいい、そんな賭博ではない。試合の流れの一瞬一瞬で確率変動で配当金が数千億にもなるし、すっからかんにもなるのです。その神のような采配ができる完全なテクニックとマウンド度胸を持った人間がもし八百長に加担するのならば、澤田明宏を味方にした人間は、全世界の数兆と言われる毎年夏の甲子園大会で世界中でブックキングされる金を独り占めできるわけです」

「嘘だよね……明宏……」
 静まり返った部屋の中で、長い沈黙の後、美姫の涙声が中に浮かんで消えた。


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