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Alone Again...別れの恋文(15/全17回)

 飲みかけのウイスキーはすっかり空になったが、俺は久しぶりの長い回想に浸っていた。

 亀裂の入ったディスプレイ越しのiPhoneの時計はすでに17:50に変わっていた。さっき時計を見てからすでに2時間近くが経過している。こんなにもあの日の、たった一夜のあの日の出来事を詳細に思い出すのは久しぶりだった。

 あの夜のことを思い出すには、もう少し酒を飲んでもいいだろう。

 俺は、起き上がると四畳半の畳部屋と地続きのカビの生えたキッチンへ向かった。すでに半分以上なくなっているジャックダニエルをグラスに半分以上注いだ。騒音のうるさい冷蔵庫を蹴飛ばして音を止めた後、冷凍室の氷を右手で3つつかみ、グラスに放り投げた。


「とにかく、今日は小姫と話をさせて欲しい、お願い」

 新宿警察署の玄関口で、みゆきはようやくこわばった表情に多少の生気を取り戻しつつあった。そしてその丁寧な懇願の口調とは裏腹に、強い意志を持った眼で俺を見た。

 小姫は俺の右腕から自分の左腕をほどき、後ろに半歩後ずさってから俺を見た。

 小姫の目がみゆきをとらえ、頷いた。

 そして俺の眼を見て、今度は眼で懇願した。

「もちろんだ。また連絡がほしい」

「ええ、必ずするわ」みゆきは一言そう言った。

 小姫は曖昧に泣きそうに笑った…。


 新宿警察署を出て俺たちは別れ、姉妹は街へと消えていった。

 小姫はうなだれたまま、みゆきに肩を抱えられるようにして、朝靄と微かに生ゴミの匂いのする新宿の街をJR駅の方面に歩いていった。歌舞伎町を背にして、二人はしばし日本という国の現実の中で、捨て置くことのできない話をするのだろう。


 その後連絡はまったくなかった。

 俺は、ケータイを待つだけでは精神が持たず、毎日のように店が開けてから店が跳ねるまでみゆきのキャバクラに通い続けた。

 当然のごとくみゆきは来なかった。

 支配人の篠崎に聞くと、無断欠勤が1週間続いたので、店はすでにクビということだった。

「そのルールはみゆきさんもよくよくご存知のはずですから、もうここには来ないと思います」篠崎は気の毒そうに俺にそう言った。

 たしかにそうなのだろう。しかし、俺にはどうすることもできなかった。篠崎にさらに金を渡して聞き出したみゆきとあかりの住んでいたアパートを尋ねてみたが、すでに誰も住んでいなかった。

 家にいても酒を無駄に飲むばかりだった。かといって、占い師をやる気にもなれない。俺は来る日も来る日もみゆきとの思い出を求めてキャバクラに通っていた。

 途中店を抜け出しては、何度も新宿的特许权にも行った。あの一夜のことが夢でないことをどうしても小姫に会って確かめたかった。

 しかし裏カジノの「乐园」(ルゥーァユァン)はすでになかった。小姫と中学生の告白大会をやったときに俺がケツを突き出して座った錆びた手すりを俺は触った。風で吹き飛んできた中国語の新聞紙の切れ端が引っかかって風にはためいていた。

 俺はそれを取り払って丸めて捨てた。取り払うときに触れた錆びた手すりは死人の手のように冷たかった。


 すっかり働く気力をなくした俺は、偽占い師で荒稼ぎしていた家賃がすぐに払えなくなり、新宿から池袋のこのボロアパートに引っ越すことになった。風呂もトイレも共同だし、住人のほとんどはイラン人だ。規則正しく毎日礼拝をやっているのにももう慣れた。


 みゆきからは連絡がなかったが、ある日小姫からメールが入った。

「シンゴさん、お久しぶりです。お姉ちゃんといろいろな話をしました。どうか姐姐と結ばれてください。お姉ちゃんはシンゴさんのことが大好きでたまらないようです。お姉ちゃんはいい人です。シンゴさんが知っているように、私は悪い人です。

 福建省の私の故郷が、共産党主導の大規模開発計画でハイテク工場になりそうです。まだ、本決まりではありませんが、蛇頭の人脈で教えてもらいました。中国では土地はすべて国のものですから、一旦決まれば、私は今度こそほんとうの意味で生まれ故郷をなくしてしまいます。福建省の役人に話をつけて、蛇頭が別の候補地を党中央本部が選択するように画策してくれるそうです。

 それには、私の生まれ育った土地が空き地同然になっているのではなく、きちんとした経済活動をやってることが条件です。故郷がなくなるのはいやです。私だけの故郷ではありません。お姉ちゃんやお父さんやお母さん、先祖代々の大切な土地です。

 だから、私は福建省に戻ってそこで蛇頭にお金を出してもらって、近代化された茶農園工場を作ることにしました。日本円で600億円くらいかかるようですが、背に腹はかえられません。蛇頭が出してくれるそうです。

 その見返りということなのでしょう。4年前に夫人をなくした蛇頭は私との結婚を望んでいます。

 軽蔑するだろうね、シンゴちゃん。でもね、分かって欲しいんだ。決してお金のためなんかじゃありません。夜も眠れないほどいろんなことを考えました。ふるさとのこともお姉ちゃんのことも、自分のことも、もちろんシンゴさんのことも一番考えました

 そして結論を出しました。

 蛇頭は中国には来ません。時々私のいる福建省に顔を見に来る程度でしょう。彼はすでに日本の裏中国人社会にとってなくてはならない存在になっていますので、私は一人で大きな茶畑を切り盛りすることになると思います。

 いつか、いつか、すべてのことが解決したら…。

 お姉ちゃんと一緒に遊びに来てください。

 その時はお姉ちゃんとシンゴさんの子供も見れるのかな。私は日本語でその時『オバサン』って呼ばれるんだね。

 歳を取るなんて考えてもみなかったわ。

 でも、そんな風にオバサンになりたい。

 シンゴさんの子供が抱いてみたい。たとえ自分の子供じゃなくてもね。

 お姉ちゃんの子供なら、きっとあたしに似ているはずだしさ。

 間違っても、単身福建省に来て私を探すなんてことはしないでね。福建省は広いよ。それに、蛇頭がシンゴさんが私に会えないようにしてしまうはずです。私はシンゴさんが中国に来てくれたという事実すら知らされないでしょう。

 このメールを書いた後、このケータイは処分します。

 一方的なメールになってごめんね。

 だれよりも好きでした。

 一目惚れってあるんだよ。

 シンゴさんの一目惚れしたお姉ちゃんを、どうか大切にしてあげてください。

 私は私の大切な一目惚れの思い出と一緒に、生まれ故郷で生きていきます。

                            小姫」


 その日は一睡もできなかった。

 バーボンのボトルを2本空けたが、酔いは俺を救ってくれなかった。

 夜明けに、氷で薄くなったグラスにバーボンを注ぎ足そうとしたときだった。

 不気味なiPhoneのマナーモードにテーブルが不快な振動音をあげた。

 メールの着信だった。

 みゆきから、あかりと一緒にしばらく北海道の温泉で住み込みの仲居として働く、というメールだった。当然のごとく、連絡先は書いてなかった。

 脱力状態で動けなくなり、床に崩れ落ちた俺に、更にメール着信を知らせる振動音が鳴るのを俺は聴いた。

「私と小姫について」

 みゆきからの長文のメールタイトルには、そう記されていた。

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