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Alone Again...蛇頭 スネークヘッド(11/全17回)

 マネージャーが蛇頭の部屋をノックする前、緊張の面持ちで自分の蝶ネクタイに手をやって、ズレがないかを確かめていた。

 身内でもかなりポジション的に近いと思われるマネージャーですら、緊張感なしにこの部屋には入れないらしい。

 あの小姫ですら、口数が少なくなっている。

 緊張の連鎖は、俺の神経をますます過敏にした。

 部屋に入ると、蛇頭は中華料理の円卓の向こう側に座り、食事をしていた。

 年齢はおそらく50代なかば。180センチ以上ある堂々とした体躯だが、贅肉はほとんどなさそうだった。物腰は一流企業の重役といっていいような上品な佇まいをしている。しかし、その眼光の奥には凶暴な光が昼夜を問わず、消えることなく絶えず燃えていることが見て取れた。

 合戦のときの篝火のように、蛇頭の目のその静かで確実な炎は消えることなく、敵の急襲に備えているかのようだった。

 その背後には人民解放軍の制服を着用した屈強な男が、9人ばかり仁王立ちになっている。俺を見据えることはまったくなく、仁王立ちのまままっすぐ前を見ている。

 たとえ相手が丸腰で、こちらが武器を持っていたとしても勝ち目はない。この中のたった一人であっても、素人が敵う相手ではないことは一目瞭然だった。

「小姫!」蛇頭が破顔した。

「久しぶりじゃないか、元気だったか」

 ついさっきまで、隠しカメラでVIPルームを監視していたはずだが、蛇頭はまる十年ぶりに小姫に会ったかのような素振りを見せた。 

 人民解放軍の制服を着た男たちのさらに背後には、調度品が飾られた棚があった。中国の民芸品がたくさん並んでいる。その中に、中国の蒸気機関車の模型があるのを俺は見つけた。

 小姫と俺が聴いたのは、あるいはこの蒸気機関車の汽笛だったのか…。俺はすっかり雰囲気に飲まれてしまっていた。もっとも飲まれるなという方が無理という話だ。

 蛇頭が合図をすると、人民解放軍の制服を着た男たちは無言で敬礼をし、軍隊風の歩き方で部屋を出ていった。

「天安門事件のときにね、民衆を戦車で轢き殺す命令が共産党本部から出ました。そのときに命令に従わずに脱走した兵士たちですよ。彼らは人民解放軍には誇りを持っています。ですので、今でもああした格好を好むようですな。彼らこそ愛国の志士です」

 蛇頭は彼らを眼で見遣りながらそうつぶやいた。

 彼らが出ていくときに、最敬礼してマネージャーもまたうやうやしくドアを閉めて退出した。地下三階の部屋、地底の総統室には、蛇頭、俺、小姫の3人が残された。

「あいかわらず、すごい食欲ね」

 小姫はそういうと、蛇頭の横の席にすっと座り慣れた仕草で老酒を酌した。その仕草におれは、小姫はこの蛇頭の愛人であったことをまざまざと思い起こした。考えてみれば当たり前の光景なのだが、俺にとっては地べたに這いつくばって許しを請うたほうがまだましだった。

 小姫と目があった。小姫は「私に任せて」、そのように眼で俺に語りかけたような気がした。しかし単なる錯覚だったのかも知れない。

「シンゴさん、よく我がカジノにいらっしゃいました。どうぞどうぞおかけください」

 俺は未だ名乗っていないのに、当然のように「シンゴ」という名前を知っている。そしてそのことをさり気なく、いや露骨にアピールしている。小姫とすら初めて会ってからまだ一日も経っていない。それなのに蛇頭は俺の名前が「シンゴ」だということを知っている…。

 なぜだ!?

 俺は、打ちのめされた。

 歌舞伎町界隈で、この蛇頭の監視下にない人間は一人もいない。おそらくそうなのだろう。監視カメラでモニタリングした映像を部下たちが記憶し、網の目のようにはられた情報網を通じて、ガード下で偽占いをやっている男を割り出したに違いない。

 しかし占いの屋台でもシンゴという名前は出していない。おそらく何らかの方法で客に糸口を見つけ、俺の行きつけのみゆきの働いているキャバクラを探し出して裏を取ったに違いない。

 それだけの情報網を持っているということは、仮に何らかの方法でこのビルから小姫と逃げ出したにしても、逃げおおせる可能性は万に一つもないということだった。

「自己紹介がまだでしたな」蛇頭は流暢な日本語でそう言った。

「あなたについては、いろいろ尋ねたいこともある。なぜならこの小姫の特別な友人のようですから」

 紳士的な言葉の裏に隠された蛇頭の怒りが、恐怖の稲妻となって俺の脳髄から足先に電流のように駆け抜けた。

「しかし、あなたは大切な客人だ。客人に自分を語ってもらう前に、まず自己紹介をする。これが東洋の礼儀ですな」

 蛇頭はそう言って、純白のナプキンを襟元から外した。小姫がそれを受け取ってたたみ、テーブルの上に置いた。蛇頭と小姫の上下関係は明らかだった。俺は、すっかり小姫の恋人気取りでいた自分の滑稽さを、まざまざと見せつけられることとなった。

「シンゴさんは、この蒸気機関車に鈴なりになった中国人を見たことがありますかな」

 蛇頭は、慇懃な言葉遣いで通訳なしに直接日本語でシンゴに語りかけた。顔には品の良い柔和な笑みが浮かんでいる。まるで俺が蒸気機関車を一瞥したことを見透かしているかのようだった。

「テレビで見たことがありますよ。中国の田舎の方から湾岸部へ大量に出稼ぎに行く人達が鈴なりになっていて、落ちたら危険だなと思いました」

 蛇頭は満足そうに頷いた。

「そう。せっかく列車に乗ってもね、途中で本当に振り落とされてしまう人も大勢いたんですよ。それでも、上海などに出ていけば、今の農村での極貧生活がバラ色の未来に変わると信じてね」

「ええ、なんとなく分かります。日本にもかつて集団就職というのがありました」

 満足そうに蛇頭がうなずくのをシンゴはただ見ているだけだった。次の展開がまったく読めない。

「そうですか。中国ではね。おそらく事情は違っています。就職が決まって上海に行くわけではないんですよ。上海に行ったら就職口があると信じて博打を打つように汽車に乗るんですな。」

 シンゴはなぜ蛇頭がそんな話をし始めたのか、内心では訝りながらも相槌を打った。

「そこで就職できなかった人間は、もう行き場がない。それでも、夢やぶれて今更田舎に戻ってもしょうがない。どうすると思いますか」

 シンゴは曖昧に首を傾げた。

「上海のその先はもう海です。もっと先へ行こうとすれば溺れて死んでしまうことになりますね。そこで、私たちが船を用意してあげるのです」

「船?」

「そうです。いわゆる簡単に言えば日本海を横断する密航船ですな。密入国ブローカーが私の仕事です。そして中国語ではその元締のことをスネークヘッドと呼ぶんです。私は同業者、つまりライバルのヘッドとともに、蛇頭と呼ばれる人間の一人というわけです。しかし、一番力を持っているので、私自身のことを一般名詞のスネークヘッドと呼ぶ習わしがありますね」

 シンゴはやっと合点がいった。この巨大な権力の基盤となっている収益源は、中国人密航者の支払う密入国費用だったのだ。

「もうお分かりのようですね。一人の中国人が海を渡って日本に潜入するのに、年収の40年分くらいのお金がかかります。日本円に換算すると話が早い。日本人の年収が少なく見積もって300万円だとしましょう。それの40倍ですから、密入国には1億2千万円の費用がかかるのですね」

 俺は密入国者が相当数いるとは思っていたが、具体的な金額など知る由もなかった。

「密入国者は毎年見つかって検挙されます。その数がおよそ300人。しかし我々は9割の密入国者を日本に送り込むことに成功しています」

 簡単な計算だった。毎年2700人前後の密入国者がいるということだ。一人ひとりに1億円かかるとして、その売上は年間で2700億円にもぼのる。株をやっている友人に聞いたことがあるが、日本の旅行代理店でトップの売上を誇るのがエイチ・アイ・エスだ。たしか4000億円程度だったと聞いた覚えがある。

 仮に蛇頭がまっとうなビジネスとして認められるならば、一躍日本の上場企業と同レベルの売上規模となる。しかも、日本の企業はその半分程度を法人税として国に納付する義務がある。

 もちろん、非合法の密入国ビジネスで日本国に納税しようというバカはいない。そうすると純利益ベースでは、日本の旅行代理店を抜いて、スネークヘッドの仕切る密入国ビジネスは実質この国のトップ集団ということになる…。

 その資金力から言えば、暴対法でジリ貧の広域暴力団の比ではないだろう。

 とんでもない敵を作ってしまった…。

 俺はもう、この世界からは逃れられないだろう。運良く蛇頭の気まぐれで生かされるにせよ、この組織の中で一番下っ端で一生奴隷のようにこき使われるのが関の山だ…。

「そしてね、シンゴさん」

 蛇頭が不気味に笑った。

「そんなビジネスは、私のビジネスのごく一部なんですよ。収益から言うと1/10程度です」

 俺は感覚が麻痺してついていけなくなっていた。

「我々のビジネスではね、例えばこういうことも平気でできるわけなんです」

 そう言って、蛇頭はいきなり小姫の腰に手を回し、乱暴に自分のもとに引き寄せた。

 いきなりチャイナドレスの胸元を引きちぎると、下着の上から小姫の豊かな乳房を鷲掴みにした。

「誤解しないでくださいね。金の力でこうやっているのではないのですよ。小姫は、ある特別な種類の私への恩義を感じているので、こうした下品な行為を一切拒否することができないのです」

 次第に蛇頭の眼に狂気が宿ってきたようだった。

 蛇頭はそのまま小姫を全裸にして自分の膝の上に座らせた。


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