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Alone Again...真実の愛の在処(13/全17回)

真実の愛は幽霊のようなものだ。
誰もがそれについて話をするが、それを見た人はほとんどいない。
                        ラ・ロシュフーコー

 奇妙なことだが、崩れ落ちる蛇頭を見ながら、俺は現実感の極限を冷静に感じていた。

 人殺しは決まってこう言うのだ。

「まるで現実感がなく、事件のことは覚えていない…」

 ところが俺にとってはそうではない。俺は常に非現実の世界、虚構の世界をひたすら生きてきた。幼い頃は家庭から現実逃避し、つい昨日までは偽占い師として虚構の世界に戸籍登録をしていた。

 しかし、俺は一方でこの現実世界を完全に諦めきることができなかったのだ。

 目の前から逃避せざるを得なかった現実世界とは別種の非現実の世界はつかの間の避難地帯だった。虚構の中でのみ大金を稼ぎ、驚異の的中率のタロット占い師として週刊誌の取材すら受けた。キャバクラでは話術が巧みな男として、金以外でもキャストたちには人気だった。

 しかし、そのどれもが非現実の世界であったのだ。

 俺は、小姫に赤子のように抱かれることによって鎧のような自分を溶かし、小姫に溺れることによって、逆説的に完全に溺れ死ぬことを免れた。

 そしてその仕上げがこれだ。

 俺はついに現実に完全に戻ってきたのだ。この景徳鎮の長さ80センチ、重さは10キロ以上あるだろうこのずっしりとした感触。そして、後頭部から血を流して倒れている小姫を蹂躙したこの獣の無様な肉体。

 そのどれもが、「おかえり、シンゴ」と出迎えてくれた現実の花束だった。一度も母親から「おかえり、慎吾」と呼ばれなかったおれは、ついに、シンゴから慎吾へと立ち戻ったのだ。


 人はすべての人を愛したいと思う。しかし生身の人間にはそれは不可能なのだ。努力が足りないのではなく、現実的に人間は神によってそう創られている。

 小姫を愛することと同じようには、蛇頭を愛することができない。そして小姫を愛するためには、蛇頭を殺さなければならない。これは自明の理だ。


 世界人類を愛しているということは、結局誰一人として愛していないことと同じなのではないのか。

 あまねく普遍的な愛など存在しない。もし愛が存在するとすればその在処は、ただ愛する者の中に存在する。

 愛とは、世界の仕組みそのものを成立させている奇跡のような普遍性だ。ゆえに愛するということは、その普遍性を愛する目の前の女に見出すことの中にのみ存在可能なのではないのか。

 俺は小姫の中にそれを見た。普遍的な愛の気持ちを持って紳士的に一人の女に惚れたのではない。普遍的な愛などという戯言は現実逃避した自分を神とする宗教であり、虚構に逃げたフィクションである。

 俺は奇妙に冷静だった。

 中退してしまった大学のフランス語の必修授業で、こんな一文があったことをこんな場面で思い出した。

真実の愛は幽霊のようなものだ。
誰もがそれについて話をするが、
それを見た人はほとんどいない。

 人はみな、愛という幽霊を自分を神とする宗教の中にでっち上げる。だから理想の女はいつまでたっても現実の女にはならない。目の前の女はいつか訪れるはずのもっと理想的ないい女と常に比較される。

 あるいは人は、理想の女を演劇や小説の中に求める。そしてそこから現実の女がいかに愚劣であるかを思い知る。ここにも、理想を求めつつ、いつまでたっても理想化された女は現実化しないというパラドックスがあるのだ。

 しかし俺はついにその幽霊を見つけたのだ。つまり現実とは愛の普遍性を目の前の現実の女の中に見出すことだったのだ。

 その思いはこの殺人で完成された。俺は最高の現実を手に入れた。二度と手放すものか。俺が今のこの現実に満足の限りを感じたのはそういう訳だった。


 小姫が蛇頭に近づき、鼻血を出している鼻孔に自分の手を近づけた。

「大丈夫、まだ生きているわ」

「そうか」

 俺にはもはやそれはどうでもいいことだった。俺は殺人を犯したが殺した相手が、たまたま死んでなかっただけの話だ。俺はそんな奇妙な思考でぶっきらぼうに小姫に答えた。


「警察を呼ぶわ」

 俺は意外でもなかった。

 さらに現実の仕上げが待っている。俺はシンゴちゃんではなく、三崎慎吾として傷害罪の供述調書に署名をして短期で釈放されるだろう。

 そしておそらく釈放を待って、蛇頭に殺される。

 いい人生だった。

 俺は俺自身の人生をまっとうできたのだ。俺は現実逃避をしてきた引きこもりの慎吾少年でもなく、マスコミに登場した高名な占い師でもなく、キャバクラの貴公子でもなく、ひとりの三崎慎吾として死んでいくのだ。なんと素晴らしいエンディングだろうか。

「さようなら小姫」

 俺は笑顔でそう言った。


「甘ったれるなバカ」

 小姫が得意の平手打ちで俺を床に倒した。

「あたしはどうなるんだ、このナルシスト」

 小姫は呆れたように俺を見た。

「一緒に幸せになるんだよ、あたしと。あたしが好きなんでしょ」


 小姫は今度は顔をクシャクシャにして泣きじゃくりながら、俺の手を引いて絨毯の上に座らせた。


「いい?あたしの云う通りにしなさい」

「ああ」俺は素直にうなずいた。

「この状況が外の連中に発覚した瞬間にシンゴちゃんは、ここで一瞬で殺されるわ」分かるわね、という表情で小姫は言った。

「そうだな」

「警察に来てもらって連行してもらうしかない。警察に一時的に匿ってもらうのよ」

 なるほど、警察を呼ぶとはそういう意味だったのか。そうされても当然と思いつつ、俺はどこかこれまでの小姫と違うなという違和感は持っていた。

「しかし、傷害罪ならすぐに釈放されるぜ。釈放されたらすぐに拉致されて殺されるから、小細工をしなくてもいいんだ。せっかく小姫と生きていけるかも知れなかったけど、それは無理のような気がするよ」


 小姫は今度は平手打ちではなくて、優しく自分の胸に俺の顔を押し付け、頬をなでてから唇づけをした。まるでだだっこをあやす母親のようだった。

「大丈夫よ。こんな修羅場は私は何度も踏んでいる」

 小姫が優しく微笑んだ。

「たしかにそうかも知れない。しかし、こればっかりはいくら小姫でもどうすることもできないだろう」

「大丈夫よ、私を誰だと思っているの」

 小姫はそう言うと、少し頭を整理しているようだった。

「大丈夫、いまシナリオを考えたわ」

 小姫はそう言うと、急ぎ足でドアに向かい、ドアの鍵を内側からしっかりと掛けた。

「あのね、傷害罪というのは現行犯逮捕でないと立件されないのよ。もしくは被害者からの被害届がないと書類送検すらされないの。日本の刑事訴訟法では送検できなくもないけど、検事がそれを受け取らないわ」

 俺はまたしても小姫の意外な一面を見た思いだった。

「だからね、警察に匿ってもらう状態さえ作れればあとはなんとでもなるわ」

「でも、蛇頭が俺を告発したらおしまいだろ」

「そうね、だから私がやったことにするのよ」

「え」

「幸いにしてあのとき蛇頭は完全に後ろ向きだった。どっちが景徳鎮で頭をかち割ったかなんて見ていないわ」

「!」

 俺は小姫の考えていることがやっと分かった。

「蛇頭は心底私に惚れている。私がそんなことを自慢する女じゃないことはよく知ってるわね」

「ああ」

「だから、私がやったことにすれば、私を告発することはありえないのよ」

「その手があったか…」

「警察は現行犯でないので事情聴取としてしか警察に引っ張れない。そしてなんとしてでも、立件のために被害者の告発状を取ろうと蛇頭に迫るでしょう。でも蛇頭は私が刑務所に入って私と会えなくなることはぜったいに望まないわ。だから、シンゴちゃんが釈放された後も、外の連中にシンゴちゃんが殺される理由もないの」

 完璧なシナリオだった。

「いいわね、これで」

「ああ、まかせる」

「問題は地下三階からケータイの電波が届くかどうか…」

 そう言いながら小姫はすでに自分のケータイの3桁の番号をプッシュしていた。


「人を殺しました。はい、私です。場所は新宿区歌舞伎町XXXXの雑居ビルの地下3階です。はい、相手の男の人もまだ倒れた状態です。念の為の救急車は呼んでいません。そうですか、そちらで手配ですか。わかりました、じゃあ私はここで待っています」

 一瞬の出来事だった。

「これで5分で警察が来るわ」

「最後の問題は…」と小姫はドアの方を見た。

 その瞬間ドアの向こうからマネージャーの声がした。激しくドアを叩く音がする。おそらく「いったい何事ですか、大きな音がしましたが」とでも言っているのだろう。

 小姫が中国語で何かを言っていたが、口論になっていた。

 一瞬小姫の声が途切れた時、人民解放軍の制服を着たボディーガードがドアを蹴破ってなだれ込んできた。

 そしてすぐさま、自分のあるじが血を流して動かなくなっているのを発見した。


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