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Alone Again...月下の白牡丹(9/全17回)

 小姫は深い深呼吸の後、けだるげな体を持て余すように上半身を起こした。その瞳は男と体を交えたことの悦びの後を引きずり、未練の糸をひくような僅かな官能的情緒を残していた。

 時計を見るとすでに2時間が経過していた。


 小姫はダブルベッドのシーツをバスローブのように身にまとい、俺の目を飽きることなく眺めていた。

 純白のシーツには、さっきまで激しく交わっていた二人の残り香が濃厚に漂っていた。しかし小姫がそれを纏うと、まるで舞に飽いた天女がしばし傍らの岩の上で鳥のさえずる中、風光明媚な景色を愉しんでいる東洋画のようだった。

 小姫はベッドからつま先を下ろすと、中国の茶器が置いてあるサイドテーブルに向かった。

「あ、パイムータンがある」小姫の声が踊った。

「なんだい、パイムータンって」俺は、はしゃぐ小姫が両手で支えて覗き込んでいる茶葉の壺に目を向けた。

「日本語にすると白牡丹ね。私の生まれた福建省の銘茶よ」

「そうか、白牡丹。白いお茶なんだね。素人の俺は福建省というと烏龍茶が思い浮かぶけど」

 故郷のはなしをされれば、誰だって嬉しいものだ。それが小姫のようにつらい思い出なしには語れないものであったとしても。

「うん。福建省は「東南山区」っていってね、中国最大の原始林が広がるところなの。安溪の「鉄観音」、武夷山の「岩茶」、福州の「ジャスミン茶」みんな福建の名産品だよ」

 俺は小姫が楽しそうに故郷を語るその声を聞いて、自分もまるで福建の茶畑にいるような気がしてきた。

「じゃあ、小姫もお茶の仕事とか子供の頃したんだよな」

「うん。基本的にお茶摘みは女性の仕事なのね。それをお茶を加工する手が空いたときに男の人も手伝うっていう感じ。子供も容赦なく働くよ。出荷の時期は徹夜でお茶を積んでいるなんてことも珍しくないんだ。月明かりの中に、ものすごく広いお茶畑が広がっているの。それを、持ちきれなくなったら畑道を通って置いてある大きなかごに入れていくのね。退屈でしんどい作業だったけど、私は月の中でお茶を摘むのがけっこう好きだったわ」

 福建省の原始林の中。月明かりの下で茶を積み、細い畑道を気をつけて歩いている小姫の姿を想像するのは楽しかった。他の男がおそらく知らないであろう小姫の魅力を発見できたような気がして、俺は嬉しかった。

 ウイスキー用のロックアイスを山盛りにしたグラスに、小姫が白牡丹を豪快に淹れた。

「はい、どうぞ。こんな飲み方したらせっかくの白牡丹の香りが飛んじゃってね、ほんとはだめなんだ。父が見たらひどく怒ると思うけど、いっぱいエッチしたあとに熱いお茶なんて飲めないもんね」

 小姫がいつものように、あけすけな言葉を口にする。さっきまで少女の小姫が月下で茶摘みをしている姿を想像していた俺は、そのギャップにさらに惹かれた。

「一朵能行的白牡丹♪」小姫が中国風の音曲に合わせて、歌い出した。

「なんだいその イードゥワ…なんとかって。最後はさっき教えてもらった白牡丹、パイムータンっていうのが聞こえたけど…」

「うん、「一輪の歩く白牡丹」だね直訳すると。意訳すると「働く白いかわいい牡丹」かな…」

「ああ、なるほどね」

「父の作詞作曲の歌があるのよ。すごいでしょ。みんな私の村では父のその歌を歌ってお茶摘みをしていたわ」

 なんどか小姫の口から父親のことが出てくる。おそらくつらい半生のなかでも父親との関係は良好だったのだろう。父親のドメスティックバイオレンスの思い出しかない俺の子供時代とは違っていてくれたらしい。そのことが、俺は心から嬉しかった。

「一輪の歩く白牡丹っていうと、可愛かったんだろうね」

「みんなに愛されていたわね」

「やっぱりな」

「ううん、違うわ。ヂィエ ヂィエ、私のお姉ちゃんがよ」小姫の顔が父親の話をするときのように、自慢気に輝いた。

「小姫には素敵なお姉ちゃんがいるんだね」

「うん。まさに一朵能行的白牡丹♪」また小鳥のように小姫が歌った。

「小姫のお姉さんだったらさぞかし美人だろうな」

「うーん。村では美丽的姐妹们 美人姉妹って言われてたけどな」

 そりゃ村の人も、畑に出て働くのが楽しみだっただろうな。俺は心底そう思った。男なんて単純だ。俺も美人姉妹の茶摘みを手伝ってみたかった。

「じゃあ、二輪の白牡丹だね」

「まっさかあ、お姉ちゃんだけだよ」小姫が楽しそうに笑った。

「だってさ、白牡丹の花言葉知ってる?「恥じらい」「人見知り」だよ。あっはっは、あたしには似合わないよ。ヂィエ ヂィエだったら似合うんだよ、すんごく。花言葉どおり控えめな美しさなんだ、お姉ちゃんはね」

 とりあえず俺は幸福感で笑った。しかし、俺には小姫もまた、その芯にあるものは、ある種の控えめな美しさなのではないかという気もしていた。

 奔放そのものに見える小姫にその言葉を使うのが適当でないならば、こう言い換えてもいい。自分の幸せ、恵まれた才能、手を伸ばせば届く金や権力など、自分の周りのいわゆる幸せに、小姫はどこかストイックなところがあると言ってもいいかも知れない。

 どれだけやりたいようにやんちゃな振る舞いをしても、どれだけ子供っぽい要求をしても、小姫の秘めた心のなかには、壊れそうな純真な魂があるような気がした。

 校舎の裏庭の告白ごっこ…、人に日本語は小声でしゃべろと命令したくせに、「シンゴちゃん、バカみたいに突っ立ってないで早くコイ」と大きな日本語で怒鳴る…。怒りに任せて1500万円分のチップの入ったチップケースを後先考えずに、全力で俺に投げつける…。

 しかしそのどれも、今にして思えば可愛い仕草に見えてくる。それはやはり、小姫の心の奥にある純粋な魂のせいではなかっただろうか。

「俺は、小姫だって白牡丹だと言ってやりたいな」

 小姫は、幸せそうに微笑んで俺の顔をじっと見つめた。

「……シンゴちゃん、ひょっとして私に惚れたのかなあ」

 かわいい小動物が男を挑発するような男を瞳で、幸せそうにつぶやく。

 答えは求めていない。「やっと私に降参したのね」いたずらっぽい眼が幸せそうにそう語っていた。

 小姫がベッドの上でまだ寝転んでいる俺に馬乗りになってきた。

 俺は思わず一輪の歩く白牡丹を自分の手に摘んで、もう一度ベッドに押し倒したい衝動に駆られた。

「だめよ。今度はシンゴさんのはなしをして」

 とっくに気がついていた。小姫は俺をからかうときはシンゴちゃんと呼ぶ。そして、ときにシンゴさんと呼ぶ。これは気まぐれではなく、厳格なルールあるのだった。傍若無人な西太后のような小姫は、虞美人のように人の心に対する礼儀をよく知っていた。

 俺のはなし…。それがあまりおもしろくもないはなしであることを間違いなく知った上で、それを甘えたように聞いてくる。

『聞かせて、シンゴさんのつらかったはなしを…』

 小姫の眼はそう語っていた。

 俺は多分遠い目をしていたと思う…。

 ずっと話をしてもどうなるものではないと思っていた。家でのドメスティックバイオレンスのあまりの騒動に、何度も近所の人が警察に通報してくれた。そのたびに生活安全課のベテラン女性警官や、警察が斡旋してくれたカウンセラーがこう言った。

『聞かせて。君の辛かった話を』

 俺は、何一つしゃべらなかった。そしてそのたびごとに孤独の鎧は強度を増し、俺はその事によって逆説的に精神を鍛えていったのだった。

 でも、もういいのかも知れない。

 俺は上半身を起こして、馬乗りになっている小姫と額が触れ合うほどに顔を近づけた。

「エッチなことしながら聴いてあげてもいいんだよ」

 小姫は俺の肩に両手を回して、優しく俺の唇を塞いだ。小姫の目は潤んでなぜか泣きそうに見えた。

「いや、いいんだ、こうしたい」

 俺は小姫の体を反転させてベッドに倒し、その豊かな胸に顔をうずめた。深呼吸すると、実の母親には一度も覚えたことのない安らかな気分が心を満たした。それはまさに、数十年冷え続けていた俺の心が、温かいお湯で満たされていくようだった。

「うん。こうしたいんだね」

 小姫は赤子をあやすように、おれを抱きかかえ、両腕で自分の胸に俺の顔を押し付けた。

 俺は小姫の胸で泣きながら、いろいろな思い出を語った。

 小姫は相槌の代わりに、ときどき、赤子をあやすように利き腕で俺の方をそっと叩いた。俺の心臓の鼓動とそれはひとつだった。そして、その鼓動はいつしか小姫の子宮の収縮音と一つになった。俺はまるで小姫の子宮の中の羊水に浮かんでいるような気分になっていった。

 嗤うやつは嗤えばいい。しかし、おれは思った。

「もう一度、この世に生まれよう。生まれなおそう…。小姫の子宮の中から」

「一朵能行的白牡丹♪」いつしか小姫が歌を歌っていた…。

 福建省の山奥の原始林で一人の少女が、月明かりの下、白牡丹の芽を積んでいた。

「小姫!」

 俺は、小姫を見つけて畑道から手を何度も振った。

 小姫が声の在り処を探すように、辺りを見渡した。

 ついに俺を見つけたようだった。

 小姫の顔が明るく輝いた。

「やっと来てくれたね、長い間迎えに来てくれるのを待ってたんだよ」

 小姫が俺に叫んだ。

 少女の小姫が俺と同じように手を何度も振った。その拍子にせっかく摘んだ白牡丹は小姫の小さな手からこぼれ落ちたようだった。

 それでも、そんな事を気にすることもなく、少女は畑道を駆け抜けて俺のところにやってきて、飛びついて抱きついた。

 その時、小姫の頬に涙が伝った。

 俺は自分の頬でそれを受け止めた。温かいお湯のような涙だった。お湯は無尽蔵な湯量で俺の存在そのものをゆっくりと浸していった。

 俺はその暖かさに、その暖かさの中にこそ、小姫の百年の孤独をまざまざと感じたのだった。

「探したよ、やっと会えたね」

 俺はそうつぶやくと、生まれてはじめて、前後不覚の深い眠りに落ちていった。

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