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Alone Again...幻影の母(12/全17回)

  嗜虐的な上機嫌さで蛇頭は小姫の胸を背後からつかんで揺すった。

 小姫は自分の背を蛇頭にピタリと押しあてられるようにされて、一切の体の自由を奪われていた。

 必然的に、あられもない肢体を弄ばれる小姫の体は、艶かしくも俺の目の前で揺れていった。

 必死に俺と目を合わせないようにする小姫だったが、何かの拍子でその屈辱的な美体を持て余すような、切なそうな眼が俺をとらえる。

「三包(サンパオ)という言葉がありましてね、シンゴさん」

 蛇頭は、まるで事務処理の合間の雑談をしているときのような平然とした態度で俺に語りかける。

「『密航』『住まい』『仕事』、これを総称して三包というのですが、この3点セットがないと、密航してきた意味がないのですよ、残念ながら」

 俺はただ状況を見ているだけだの自分を呪い殺したくなった。

「密航の目的は、犯罪者の逃亡ではないのです。密航という犯罪は、密航を犯すことによって事後的に成立するんですな。密航者にとっての本来の密航目的は本国への送金です」

 蛇頭はここで小姫を正面に向かせ、自分の膝の上に押し倒すようにして小姫の口に無理やり自分の唇を押し込んだ。

「本国への送金という本来の目的を果たすためには、三包が揃っていないと無意味なことは分かるでしょう。そのために私たちは、ワンストップサービスでこれらを提供するのです」

 この間もずっと小姫への肉体的な蹂躙は続いていた。まるでビジネスの商談を行うような落ち着いた話し方と、やっていることの鬼畜にも劣る行為のギャップに俺は次第に全身の感覚、神経の正常さを失っていった。

 ただ、耳に入ることだけが機械的に脳髄の中に変換されて格納されていく。

 確かに蛇頭が言うように、住む場所を確保するためには日本国籍と住民票の偽造が必要だし、仕事もハローワークに登録するわけにもいかない。つまり、本国送金という目的を果たすためには、朝起きてから仕事に行き夜家に帰ってきて寝るまで、そのすべての面において蛇頭の世話にならないといけないことになる。

 これが蛇頭の言っていた、密航だけのビジネスを手掛けているわけではないということが意味する全貌だ。

「当然真面目に生きていれば、どうしたってうまくいかないことだってあるんです。それは痛いほどよく分かります。そんな場合には些少ではありますが、金銭的な援助を申し出る場合もあるんです」

 このセリフだけを聞くと、まるで社会福祉運動に真面目に取り組んでいる真面目なケースワーカーのようだった。

「健康保険もありませんね。ですから、密航者でも診てもらえる医者の斡旋も行います。だってそうでしょう。病気の人を放っておくわけにはいきません」

 このセリフだけを聞くと、すべての社会的名誉をなげうって単身無医村に移住してきた赤ひげ先生のように聞こえる。

 しかし、蛇頭は当然のことのようにこんな言葉を加えるのだった。

「もちろん保険は効かないので、それ相応の金額はご請求することになりますがね」

 この他にもいくつかの三包を実現するための「サポート」(としきりに蛇頭は強調した)の例を熱心に、まるで俺にプレゼンテーションをするようによどみなく蛇頭は語っていった。

 聞けば聞くほど、悪魔の仕業だった。借金が借金を呼び、弱みを握られることが、さらに輪をかけた弱みの提供となって拡大再生産されていく。地獄絵巻の阿鼻叫喚の中で、密航者たちが夢見た天国日本は、跡形もなく消え去っていくのだろう。

 残されたのは、密航費の数倍にものぼる、一生奴隷として仕えても返し切ることができない金銭的負債。さらに夜逃げすることすらできない自分の弱みの数々という文字通りの足枷だった。

 小姫は観念したように、蛇頭に自分の体を任せている。

 蛇頭はそれを当然のことのようにして、執拗に小姫の体に濃厚な愛撫を繰り返していた。小姫が身もだえる様は、さながら、美しい人魚が海底深くで踊っているかのようだった。

 時々目があう小姫の目に微かに官能の色が芽生えはじめた。官能の波に押される間隔は、次第に狭まっていくようだった。俺は、次第に正常心を失うばかりか、自分自身が狂気に駆られていくことを感じていた。

 蛇頭が執拗な愛撫をやめ、突然小姫の体を自分から離して抱きかかえた。そしてつかつかと俺の方向に歩み寄ってきて、そのまま小姫を床に落とした。

 くるぶしが隠れるほどの厚い絨毯が敷き詰められていたので、小姫の体は鞠のように床で跳ねるのみだった。

 この時、俺の狂気は現実となった。

 酒まみれの父親の帰宅とともに、いつものドメスティックバイオレンスの悲劇の緞帳がその幕を開ける。

 俺は母親のために何度も抵抗した。

 母さん…。

 そんな眼で恨めしそうに睨まないでおくれよ…。

 僕だって、僕だって…

 封印していたあのどす黒い感情と、それをわずかに上回る放心したような諦めの状態が交錯した。あのときはそのまま諦めの靄が広がるのみだった。しかし、小姫を前にして俺のどす黒い感情は拡大するばかりだった。

 過去から現在を射抜き、そして未来をまで規定した俺のあきらめの心の奥底には、休火山のようなマグマが常に潜んでいた。

 その厚い厚い地殻は、小姫の暖かい無尽蔵の涙によって溶かされていた。

 忘れていた感情が蘇った。

 その瞬間は、床に叩き落された小姫の瞳の涙を確認したときだった。

 俺はそこに、心から望んで果たせなかった、母親の優しい目を感じ取ることができたのだった。

「あのときの俺とはもう違う。おれはさっき、小姫の子宮から生まれ直したんだ」

 俺は全身に力がみなぎるのを感じた。

 蛇頭は、自分のテーブルに戻ると、椅子を反転させ、小姫の代わりに先ほどの蒸気機関車の模型を弄び始めた。

「小姫はね、残留孤児なのでそこまで悲惨ではありません。でも残留孤児が日本で生きていくのもまた大変なことなのですよ。だから、いろんな面で援助していますよ」

 上機嫌に蒸気機関車をいじる蛇頭の後ろ姿は、まるで機械いじりに夢中になっている少年のようだった。

「色んな場面でね。ご覧のように、心も、そして美しい小姫の肉体もね」

 俺は体が自然と動くのを感じた。

 何かを察知した小姫が、驚愕の顔をして、歩き出した俺の下半身に身を挺してしがみついてきた。

 俺は足でそれを振り払った。

 歩く途中で壁際にあった景徳鎮の巨大な花瓶を握った。

 後ろ向きの蛇頭の後頭部めがけ、ためらいもなくそれを振り下ろした。

 蛇頭は蛇が首を切断されたようにな奇妙な回転ダンスを踊りながら、無言で絨毯の上に崩れ落ちていった。


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