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【長編小説】真夏の死角 37 みんなのアイドル景子おばさん

「大変な事件になったよな」

 金子がおもむろに、慶次にではなく美姫に話しかけた。

 美姫は金子の視線を受け、一瞬たじろいだが、これまでのような嫌悪感はだんだんと無くなっていた。あの明宏が全幅の信頼と友情を感じてこうして肩を組んで認めている相手。それが美姫に安心感をもたらしたのもそうであったが、見た目から来る印象やそれにともなって出てくる偏見めいたものを取り除いてみれば、それこそ第一印象で慶次と美姫が感じたあの、長年なにかに打ち込んできたものだけに宿る眼光の背後の静かな落ち着いた自身はむしろ信頼できるものであった。

 つまり、金子はこんな生活をしていながらもまだ心の底から腐っているわけではないと美姫は思い始めていた。

「そうだね」

 美姫は、ある日明宏が連続殺人事件の有力容疑者として逮捕された日から今日までのいろんなことを反芻した。その中で、だんだんと見えてきたのは事件の輪郭であるとともに、これまで生きてきた、家庭や学校とはまったく違う場所で大人たちは、そして大人たちの世界の周辺にある宏明や金子の世界が、また自分たちが生きているのとは別の世界として、日々そこに営まれているという事実だった。

 同じ空間にいたとしても、まったく違う生活圏、そして交わることのない偶有性を持った世界が多層に重なり合って、この世界は一つに見えているだけで、一歩足を踏み入れれば、そう、この公団住宅のように表通りから視界には入っていたにも関わらず、足を踏み入れれば無数の世界が重なり合ってそこに存在している。

 となりの景子おばさん、そして逮捕前に宏明がいたあの空間と、まったく間取りの同じこの家の中では、隣とは似ても似つかない日々の生活が、必然的に金子の過去から引き起こされて現在こうしてここにあり、そしてこの空間は未来に引き継がれていく。窓からびっしり見えるこの巨大公団にはそんな空間が1000以上もあり、その1000以上の時空間は固有の秩序とエネルギーを保持して、時に交錯し、時に離れ、そして惑星がそのひとつひとつは静止して見えるにせよ、より俯瞰した視点からは太陽を中心に同心円状に存在していること、そして、そこに生きている人間はそのことにまったく気が付かないことの不思議さを美姫は感じた。

 そして、いまその太陽のように、いや、太陽のように光り輝いてはいないが、四方八方から垣間見えるその白昼の死角を確かに生じさせている一人の人間がいる。

 マウンドから直線方向にバッターボックスに投げたにも関わらず、打者の背中越しからストライクゾーンに入るという明宏の見えない魔球。宏明はそんな決め球の魔球をいくつも人知れずマウンドから投げており、その魔球がひとつ、またひとつと蜃気楼のように美姫の前に現れては消えていった。

「景子さんのこれ、気になるだろ」

 いったん気を許すと、金子の表情はひとなつっこいとさえいえるもので、美姫も自然とつられてその表情からは笑みがこぼれた。

「うん、びっくりしたよ。でもさ、景子おばさんがこれやってたのって随分前、あたしたちが生まれる前のことだよね」

「ああ、そうだな、今の人じゃない」

「どうして」

「そうだよな、そう思うよな」

 金子は何だか楽しそうだった。

 慶次はなにやらニヤニヤしながら二人の会話に割り込むでもなく、眺めて楽しんでいた。

「もともとは、もちろん何も知らなかった。景子さんは少年野球の子どもたちのアイドル的存在でさ。美人だって言うのももちろんだけど、とにかく優しかったんだよ」

「へえ、まあそうだろうね」

「うん。少年野球の父兄っていうのは基本的にみんな仲悪くてね」

「そうなの」

「うん、言ってみれば、中学受験の名門塾みたいなものだよ。周りはみんなライバルなわけで、父兄同士は仲良くなる理由もないだろう」

 金子はたんたんと語った。

「そういえばそうか」

「うん、ただ」

「うん」

「であるにも関わらず、試合の時はお母さんたちは集団で父兄全員と子どもたちのおにぎりを作ったり、お茶を用意したり、お父さんたちは応援席を確保したり、私設応援団を結成して応援したりとかね」

「ああ、そこは中学受験予備校とは違うね」

「そうそう。仲が悪い癖に集団で行動して仲の良いふりをしなくちゃいけない」

 金子はそう言って苦笑した。

 この苦笑。大人に反抗するでもなく、大人を毛嫌いするでもなく、ましてや、大人をからかうでもなく、ただ純粋に苦笑する子供。そんな人間は明宏くらいしか見たことがなかったが、ここにも、そんな子供がもう一人いた。

 父兄の方でも父兄同士は仲が悪いけど、権力者である監督には媚を売りまくっている。試合に出して欲しいということもあるし、なんといっても、監督は中学校から高校へとずっと、その学校への推薦権をもっているからね。

「ああ、そうか、学校で言えば裏口入学枠を持っているということだな」

 黙って聞いていた慶次が、話が面白くなってきたのだろう、身を乗り出して話の輪に入ってきた。

「そうだな。というか、うーん。入学枠を持っているというか、中学受験の場合あくまで、そういう裏道もあるよっていうことだよね」

「ああ、分かってきた」

「野球推薦の場合には、公募、つまり野球入学試験ってのがない。スポーツ特待生っていうのは、あれは全部裏口入学だ」

「そらそうなんだろうな」

「ということは、学力で入学する一般入試じゃなくて、野球で学校に入ろうと思ったら、100%裏口入学を斡旋する人間のお世話になる」

「あ、そうか。絶対的な権力を持っているな」

「そうそう。そういうのが整備されていて、個人的に先輩にプロ野球出身者がいるとか、PL学園の理事を知っているとか、そういうのはほとんど力を持っていない」

「へーそういうもんなのか」

「そうだ。まるで全国の反社会的勢力みたいに、表には出ていないけど、野球エリート裏社会でそれを仕切っている団体がある」

「ああ、それが当時監督、殺された時には少年ファイターズリーグ神奈川県市部長だった川崎という人のいたところか」

「そうそう、少年ファイターズリーグの部長ともなれば、美人のお母さんなんてよりどりみどりで、自分の愛人にできるよ」

「げっ」慶次が口をあんぐり開けた。

 美姫も、「げっ」とは口にしなかったが、思わず口がぽかんと開いてしまった。

「だって、中学受験と違って、監督推薦は絶対的だもん。美人のお母さんで、何がなんでも我が子を将来プロ野球選手にしたいとういひとは、進んで監督や、その上の人間たちとは個人的なつながりをもつよね」

「そういうの、子どもたちも知ってるのか」

「ああ、知ってるよ」

 まさかとは思ったが、金子はあっさり肯定した。

 それが、父兄同士が仲が悪くなる最大の原因かもしれない。言ってみれば美人のお母さんは自分の体を使って自分の息子の将来を有利にできるからな。

「小学生がそういう実情知ってるのか!?もしかして自分のお母さんが監督や、その地域部長の愛人になっているとか」

「うすうすは知っている。愛人というものがどういうものかはさすがに小学生にはわからないだろうけど、中学になれば、そういう事情もわかる。自分の母親が自分のためにそういうことをしていると気がついている選手もいるし、父親も断腸の思いで母親が少年ファイターズリーグの人間と時々呼ばれてはホテルでセックスしていることを黙認している。だから、家庭も表面的には野球エリートってことで、家の応接間にトロフィーなんか飾っちゃったりして、お客さんが来ると幸せを絵に書いたような家庭をやってるけど、一皮むけば、仮面夫婦どころか、すでに崩壊、いや、崩壊どころじゃない。廃墟だよ」

「げげげげげーーーーー!ほんとかよ、俺甲子園球児のイメージ崩壊したぞ」

「まあ、関係者に聞いても絶対に出てこないからな、こういうのは。俺はすでに関係者じゃないからこうやって口にしているけど、現役でやっていたらこんな話は絶対にしないぜ」

「景子おばさん、少年ファイターズリーグの人のすごい争奪戦になったんじゃない」

 美姫は、あまりのことにほとんど頭真っ白な状態だったので、そのまんまストレートにすごいことを口にした。

 しかし、そこには笑いは巻きおこらなかった。

「すごいなんてもんじゃないよ。ボーイズリーグの監督や幹部からもそうだし、わけわからんお父さんがトチ狂っちゃって、景子おばさんはそんなことはしてはいけない!とか、まるでナイト気取りで間に入って、ボーイズリーグの権力者に睨まれて、息子ごとリーグを追放されたりとか。それでも粘って、景子さんに駆け落ち持ちかけたり、別のケースだけど、景子おばさん取り合って、思い詰めて父親が自殺未遂もあったな」

「何をやってんだ、大人たちは……」

「いつも、男の大人たちは口に出さなくても、景子おばさんのことが頭にあったと思う。そしてときどき、裏情報が飛び交っていたんだ」

「裏情報というと」

「この間少年ファイターズリーグの誰それと密会していたとか、三塁手の補欠の父親とホテルから出てきたとか」

「げげげのげーーーーー」

「もちろん、噂にすぎない。でも、ひっきりなしだったな。当然お母さんたちからは景子さんは爪弾き。でも、景子さんは爪弾きどころかそんな誹謗中傷は聞こえなかったかのように、献身的にチームの雰囲気が少しでも良くなるように頑張ってくれていたし、変な思惑全く抜きに、俺たち子供には分け隔てなく優しくしてくれたり、一緒に笑ったり、心からプレーを応援してくれたんだ」

「そら、景子さんは別の意味で子どもたちからもアイドルだろうな」

「そうだよ、ほとんど女神だったよ、選手一人ひとりのな」

「景子おばさんならそういう存在になるよね」

 美姫は話の展開に驚きながらも、その部分は納得できた。

「うん、そんな中、景子おばさんがもともとはAV女優らしいっていう話が出てきたんだ」

「うーん、そういう展開か」慶次が腕組みをした。

「うん、それを流したのが、後から判明したんだけど、俺を破滅させた週刊誌記者の竹村京子だったんだ」


 慶次と美姫は話の展開に驚き相槌を打つこともできず、口の中の唾液をゴクリと飲み込んで軽く呼吸を整えた。

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