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【長編小説】真夏の死角66 伝説のポルノアイドル澤田景子争奪戦

「お母さんは、景子さんはこのことを知っていたんですか」
 長い沈黙の後に田久保が必然的な問いかけを景子に向かって為した。

 景子はその質問を予期していたかのようににこやかに笑みを浮かべた。その笑みはかつて伝説のAVアイドルと言われ、表の芸能界のアイドルをも凌ぐ人気を誇った澤田景子の若い頃をのようだった。

「明宏が八百長を実際にやっていたかどうかは私は知りません。しかし、八百長を強要されていたことは知っていました」

 この言葉もまた用意されたかのように、静かに淀みなく景子の口から出てきたものであったが、田久保、牧村慶次、美姫の三人にとっては衝撃だった。

「景子おばさん……明宏は脅迫されていたんですか」
 美姫がその事実にわずかでも明宏の八百長疑惑に弁明の余地がないか、さぐるような目で必死に景子の瞳を見つめながら尋ねた。横にいる牧村慶次もまた、それが事実であったのなら許せないという顔つきをしていたが、あの甲子園の大ヒーロー澤田明宏にあろうことか八百長疑惑があったことに戸惑いを隠しきれない様子だった。

「あの子がいつものようにリビングで純金の魔球で手首のスナップを鍛えていたんです。そんな明宏に紅茶を入れてあげたり、なんとなく最近の話をしたりするっていうのが、日常的な風景でした」

 景子は今や連続殺人事件容疑者として警察に身柄を拘束されている我が子を思いやるように、少しだけ辛そうな表情を浮かべた。

 田久保、牧村慶次、美姫の三人は景子の口からどんな言葉が出てくるのか固唾をのんで見守っていた。

「『今日、若林理事長と森田監督に理事長室に呼ばれたよ』おもむろになんでもないような口調で明宏がそう言いました。そのことは別になんとも思っていないような口ぶりでした。もっともあの子の内面は母親の私ですら想像しかねるところもありましたから、その言葉だけで明宏が何を言わんとしているかは分かりませんでした」

「理事長室に呼ばれるということは良くあったのですか」
 田久保が景子が話しやすいようにと、張り詰めた緊張感の中、小さく水を向ける。

「もちろんそんな話は始めて聞きました。監督とはよく二人だけで話をしていたようですが、それはあくまでも、野球のこと。理事長室に呼ばれたということは、何かもっと大きな話があったのだろうと思いました」

 田久保はただ頷いた。

「『監督から聖華学園との試合では、強打者の松木秀信にはすべて四球で歩かせろ』と指示されたよ。明宏はそう言いました。あっけらかんとした様子で、そことに憤りを感じたりといったことはなかったようです。確かに、万が一にも松木秀信にホームランを打たれたら試合がひっくり返って徳田商業商業は負けてしまいますからね。でも……」

「でも……?」

「『でも、監督からは8番打者の木崎には5回でそれまでに満塁にランナーを貯めておいて2アウト、2-3まで追い込んでから満塁ホームランを打たれろ』と同時に言われたんだ」

 田久保は先程の三岩組のブッキングシステムを思い浮かべていた。まさか澤田明宏ともあろう大投手が、8番という下位打者にホームランを浴びるなど予想するものは一人もいないだろう。それに、フルカウントになっている場合、バッターは三振を避けようと大振りはしない。よほどのホームランボールでも来ない限りは強振してそのボールをホームランにすることなどありえない。さらに2アウトならば、魔球を投げるまでもなく切れの鋭い澤田のカーブを投げれば、確実に内野併殺打になると誰もが予想する。

 だから、ツーアウトフルカウント下位打者という条件で澤田がホームランを打たれる可能性はありえないと言って良い。しかもランナーをためていて満塁ホームラン。これは更にない。しかしながら、ランナーをわざとらしくなく出すことすらも、澤田なら可能だ。
 例えばサードの守備位置がわずかにサード・ライン寄りだったことを確認したら、右打者に対してサードとショートの間を抜きやすいような引っ張りやすい遅めのストレートを内角に投げることで、上から叩きつけるバッティングを監督から叩き込まれている下位打者はインコースに逆らわずバットを振り下ろす。
 これは確実にサードとショートの間を抜けるだろう。テレビの解説者はリプレイを見ながら、「サードの守備位置がややベースよりで、アンラッキーでしたね。普段の守備ならサードの森上君ならなんなくさばけたでしょう」などとのんきな解説をするのだ。しかしその時、まさに、三遊間を抜けるゴロがヒットになることを見抜いていたのは、他ならぬ澤田明宏なのだった。

「『変なこと言うのね』と私は言いました。でも、もしかするとこれは、背後にあれがあるのか……ということにも本当は気がついていました。理事長さんたちが野球賭博にタッチしている話は主人から何となく聞いていましたので……」

 景子はそこで、少しだけ息を整えた。

「明宏は続けてこう言いました。『母さんには言わなかったんだけど、実は今までも、こういう謎の指示は監督からあったんだ。でももちろん全部無視していた。ところが理事長がその時、澤田君しっかり頼むよ、これはにはお母さんの名誉がかかっているのだから、ということだったんだ』」

「お母さんの名誉がかかっている……?」
 田久保が問いただすような目を景子に向けた。

「そこは私が話をしましょう」

 話しづらそうな素振りを見せた景子に変わって、アイデルバーグが口を開いた。

「ギャンブリング・ジャンキーの小谷一郎氏が実はその年の甲子園賭博で、決勝戦前までにすでに1兆円にものぼる巨額な損を出したんですよ」

「一兆円……」
 田久保は現実味を感じることのできないその金額になんとか現実味をもたせようと、その言葉を反芻してみた。

「さすがにその金額は、いかな小谷一郎氏であっても、すぐにどうにでもなるものではないです」

「それは、そうなのでしょう」田久保も相槌を打った。

「それを肩代わりしてくれたのが、マカオの賭博王、スタンレー・マッカーシーです」

「スタンレー・マッカーシー……?」

「カジノ界では伝説の紳士ですよ。なにせ彼のカジノは朝鮮民主主義人民共和国にすら開帳されていますから」

「そのスタンレーマッカーシーがどうしたんです」

「彼が借金を肩代わりすることの条件として、ある女性を要求したんです。もっともスタンレー・マッカーシー自身がその女性を求めたのではありません。中国共産党のナンバー2かナンバー3あたりの要人とだけ申し上げておきましょう。彼としては共産党幹部に恩を売りたかったということでしょう」

「そこは、私もその要人の名前を知ろうとは思いません。私はあくまでも警察機構の人間であって、諜報関係は知る必要もない。私が知りたいのは、その女性の名前です」
 田久保は、あえて澤田景子の方を見ずに、アイデルバーグに尋ねた。

「日本の文化というのは表向きでは中国でも韓国でも反日の影に隠れていますが、実はアジア地域に強烈な根を張っています」

「はい、そこは知っていますよ」

「中国共産党の要人の間では、実は日本の黎明期のポルノ映画を楽しむことが流行っているのです……」

「日本の黎明期のポルノ……」

「私もいくつか拝見しましたが、実にクオリティが高く、内容もただ扇情的なシーンがあるのではなく、ストーリーも練られており、文学的と言って良いような内容の作品も散見されますね」

「日活ロマンポルノというやつですね。あそこから、表の芸能界に躍り出た大女優もたくさんいますよ。確かにあそこには芸術的と言って良いような作品もあります」

「もと、日活ロマンポルノの大スターで、その後アダルトビデオ業界でもクイーンの名前を恣にした妙齢な女性がいます」

「……」

「今でも高校生の息子さんがいるとはとても思えない美貌です。この女性に一目会いたい。できることなら食事をしたい、そして叶うことならば一夜をともにしたいという、中国人の要人はたくさんいるということですな……」

 アイデルバーグが最低限の説明の義務は果たしたという目で澤田景子に目をやった。

 田久保がその視線につられて目を向けると、たしかにそこには、昭和の大女優と言っても良いような妖艶な女性が立っていた。中国人要人の間ではこの女性が、生きる伝説として崇められている……。

「スタンレー・マッカーシーは、景子さんに、共産党要人と一夜をともにせよと言ったわけですね」

 田久保が景子の気持ちを慮るようにして静かにそれを口にした。

「はい。私はその事実を他ならぬ明宏から聞いたんです」

「なんですって!?」これにはさすがに田久保も大きな声を出してしまった。

「『君のお母さんはそれはそれはお綺麗だったらしいね』理事長がこういいながら、秘書に大きな荷物を持ってこさせたそうです。その荷物の中には私の映画やビデオのありとあらゆる男優との濡れ場、痴態のスチル写真が入っており、理事長はいやらしい目でそれを眺めながら、秘書に一枚一枚明宏の前でそれを広げていったそうです。もちろんあの子も私がかつてそういう仕事をしていたことは知っています。でも、そのことは、もうまったく過去の話で、具体的なことになんて触れたこともありません。あの子は有無を言えない状況の中で、何時間にも渡って、私のありとあらゆる痴態の写真を理事長室中に並べられて、じっとそれを見せられたそうです」

「なんということを……」
 田久保が絶句した。牧村慶次も美姫も言葉を出すことができなかった。

「『君はいままで監督命令を聞かなかったそうだね、でも今度は聞いてくれるね』執拗に理事長はこう言いながら、明宏が首を縦に振ることを待っていたようです。そして、秘書はその間ずっと果てしもなく私の昔の写真をテーブルの上に、そして床中に並べていく……」

「人間性の蹂躙の極限状況です。殺意を覚えてもしょうがない状況です……」
 田久保が厳しい表情でそう言った。殺意という言葉に、牧村慶次と美姫が肩をビクッと震わせて反応した。

「それで澤田君は……」
 田久保が景子に緊張感を努めて隠しながら言葉を投げかけた。

「『大丈夫、僕が全部すべて、全部、すべて全部を解決するから』あの子は一言だけこう言って、にっこり笑ってリビングから出ていきました」


 


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