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サークル発足に寄せて

エッセイ 人を傷つけない という平和憲法の誕生

 世の中には、争いごとを好まない人がいるようだ。その人は優しい顔で「喧嘩両成敗」を勧めることに特徴がある。

「喧嘩両成敗」とは、その成立条件の根本に自分が当事者であることから距離を置くことが必要だ。距離を置くとはどのようなことだろう。それは、何が正しくて、何が正しくないか、という真摯な問いかけを棚に上げることだ。

 自分はどう思うのか、自分はどう感じるのか、自分の譲れないものはなにか。これは自分自身に対する真摯な問いかけなしには見えてこない。つまり、「喧嘩両成敗」の誕生には、自分の真摯さというものの棚上げが不可欠なのである。

 極端に争い事を忌避する人は、心優しい人なのだろうか。否、単に臆病なのである。

 本当の優しさは孤独に耐える強さが必要。本当の優しさを知っている人は、自分に真摯だ。自分はどう思うのか、自分はどう感じるのか、自分の譲れないものはなにかについて、恐れずに自分自身に問いかけてみる。

 その問いかけが純粋であればあるほど、「どちらにも言い分がある」」喧嘩両成敗」という態度を離れて、どちらかの意見、主張が少数派であったとしても自分の実感と一致する場合には、口に出さなくても、行動に移さなくくても心のなかでそれを支持するだろう。

 それがサイレントマジョリティーを形成する。行動なんか伴わなくていい。そこまで勇気りんりんである必要はない、人が全員アンパンマンになる必要はないんだ。ただ、優しく沈黙すればいい。それはサイレントマジョリティーとして、同調圧力を伴わずに、静かに確かな目に見えない連帯感を生む。

 しかし臆病な精神は、優しく黙っていることができない。

 これが、たまたま空気感としてすでにそこにあったマジョリティの場合にはまだよい。しかし何か事件が起こり、どうしてもこれまで、安全装置として世間のみんなが、そして自分自身が棚に上げてきたことを突きつけられる場合、人には自分の結論は世間のみんなを敵に回すことになるのではないか、という恐れが生じる。

 臆病な人は、ものすごく恐れに対して敏感だ。恐れが自分の心の中にわずかでも芽生えそうな兆候をいち早く発見すると、その是非を問わずにいきなりそれに蓋をしようとする。

 つまり、喧嘩両成敗とは、双方に対して優しいということではなく、むしろその逆に、双方に対して臆病であることをごまかすための方便なのである。でも本当に臆病なのは、自分自身に向き合うこと対してじゃないのかな。

「喧嘩両成敗」が合言葉として成立する要件は、価値観の尊重、ダイバーシティなどとは似ても似つかない醜悪なナルシズムである。

 自分が当事者的視点を持たないこと。これこそが、自分自身に真摯に向き合うことを回避する一番手っ取り早く、確実な方法だからだ。

 その意味でsense of ownership、当事者意識とは世の中の森羅万象のすべてに当てはまると言える。この世の中に実は他人事なんてないんだ。テレビニュースの出来事も、ネットでの争いごとも、自分が見て見ぬ振りをしてきた教室のいじめられっ子も、自分はそのことをどう考えるのか、という自分への真摯な問いかけと無関係ではないのだ。

 もちろん、自分がそうした事象に対して、何か直接的に行動することがいつでも必要であるわけはない。忙しい現代人にそんな暇はない。しかしほんの一瞬でも良いから、それを自分はどう考えるのかを問うてみることを忌避する態度には、根深い臆病さがある。

 その臆病さが思考停止の安全装置として作動した時、優しい人は優しい顔をして「喧嘩両成敗」を勧めるのだ。自分に被害が及ばないために。ところが被害が及ばないというのは、まだまだ甘い見方であって、本音のところは自分自身に対する問いかけが恐ろしいからだ、というのが真相だろう。

  いじめる側にも理由があるという意見。これも喧嘩両成敗の醜悪でおぞましいな帰結だ。単純な話だよ。いじめっ子にそれは悪い、そう言ったら自分がいじめられちゃうよね。でも、いじめに加担することもできない。そこに思考停止装置が作動するのはしかたがないだろう。

 もっともいじめに関しては、喧嘩両成敗は少数派だ。だから優しい顔をした人は、このときだけ例外的に、いじめは絶対的に悪いと自信を持って言っている。でもなんのことはない、世の中の空気がいじめた側にも五分の魂がある、となるやいなや、ころっと喧嘩両成敗に変わるのだ。要するに自分なんてものがないから、ころころいくらでも変われるのだ。

 物事を判断することを長年巧妙に避けてきた結果、判断してマイノリティの結論が出てくる怖さもさることながら、そもそも自分自身には、自分が守りたい、生きているうえでこれだけは譲れない、という信念があるのかどうか、という、空っぽ、空虚な自分に直面する恐怖を忌避することがどうしても避けられなくなっているのだと思う。

 ゆえに、自分に真摯に向き合う恐怖を回避する方便のひとつが「喧嘩両成敗」である。理由は何であれ喧嘩をすることを忌み嫌うこと自体が、ことの是非よりも遥かに上位にあるというのは根本的な精神的倒錯なのだが、そもそも精神の領域を直視することを避けることを目的としてこの機序は成立しているので、倒錯と言うよりはむしろ、人間的精神の放棄と言った方が適当なのかも知れない。

 本当の優しさは、結論を恐れずに自分自身を直視するということを可能にする。だから、逆説的に本当の優しさを持っている人は、結論次第によっては攻撃的に見えることもあるのだ。しかしそれはただ、その人が自分自身に対して真摯であるからだろう。

 偽の優しさは臆病に根を発しているから我慢を伴う。私だって、我慢をしている。だから一方的に正義を主張するのではなく、喧嘩両成敗で相手の正義も尊重しましょうとなってその主張をせざるを得ない。サイレントマジョリティーに期待するには心が脆すぎて黙っていられないのだ。

 議論の成立しないところに、いきなり解決を持ち込む、いきなり暴力的に平和を押し付けるのが、臆病さを根に発する偽の優しい顔をした人の特徴だ。

 我慢は相手に直接縦方向に行かずに、日本的連帯として横に広がる。

 そして、連帯を求められた相手も、同じく臆病であるからその連帯要請を拒否できない。これこそ同調圧力の正体だ。

 ここに人を傷つけないという、庶民の憲法第九条が成立する。

 それを疑うことは許されない。

 よく見てみるが良い。優しい顔をした人の根深い臆病さと、それを隠蔽するために主張する偽の暴力反対の同調圧力と強烈な自己愛を。

 仮面を剥いで見れば、そこには武闘派の人間とは似ても似つかない、暴力をやむを得ず肯定する人間を、それ以上の暴力でねじ伏せようとする残忍なルサンチマンがうごめいている。

 実は他人へは誰ひとり優しくない。この人達が優しさを向ける相手はただ一人、自分だけだ。

 ヤクザやさんは、笑うと笑顔がとても素敵だ。本当の暴力の意味を知っているから。


 私に向けられた優しい人の笑い顔は…。

 私には、ヤクザに睨まれるよりよっぽど恐ろしい。

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 何が正しいか、自分のことが分からないくらい混乱したら。

 ぜひ、誰かの意見を聞いてみましょう。

 ここでは一つの意見の押しつけはご法度です。

 そして、喧嘩両成敗の平和を押し付ける同調圧力も禁止です。

 自分のことをまずは相対化して、冷静さを取り戻しましょう。

 そのためにご活用ください。



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