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般若心経を読む4~空は「無」でない

日常生活で、我々日本人は「空」と「無」を同じように使っている場面が多いです。例えば「心が空しいな」とか「私には何も無い」。こういう場合は「空」と「無」は同じといってもよいでしょう。

しかし、般若心経では違います。というか仏教では「空」と「無」は別物です。西洋哲学を知ってらっしゃる方は、ハイデガーの根本思想が存在論的であるのに対してサルトルのそれが存在的であることを思い出していただければと思います。

「無い」という言葉は、単に何かを否定します。俺には何も無いというのもそうですし、私には財産はない、私にはとりえも無い、私には雨露しのぐあばら家も無い。

これを試しに「空」で置き換えられるかやってみます。
えいやあ、とぉおおう、変換じゃあ(^~^)。

私には財産は空、私にはとりえも空、私には雨露しのぐあばら家も空。

くう…
クー

なんだか清涼飲料水みたいになってきました。


私には財産はない、私にはとりえも無い、私には雨露しのぐあばら家も無い。これを「空」に単純変換は失敗しましたので、こうやってみます。

私にとっては財産は空しい、私にとってはとりえも空しい、私にとっては雨露しのぐあばら家も空しい。

これで、多少はお釈迦様の言っていることに、つまり真の意味の「空」に近づいてきました。

「無い」という場合には文字通り、打ち消しているんですよね。

具体例を出しましょう。

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)


見事に「無」の連発で、これは小乗系の人が気を悪くするのももっともかもしれません。般若心経はサンスクリット語の音訳なので、もともとのサンスクリット語の発音がそうさせたのでしょう。

しかしこれを漢文書き下しにして、日本人がこう解釈するのはお釈迦様の本意からずれてきます。というか根本のところでとらえそこなっています。

無色 
色は無い

無受想行識
受想行識は無い

無眼耳鼻舌身意 
眼耳鼻舌身は無い

無色声香味触法
色声香味触法は無い

以下全部同じです。仏教の根本教義が全部「そんなものはない」となっちゃってまして、えらいこっちゃ@@。

こう解釈するのが適当でしょう。

無色 
色という概念は空しい

無受想行識
受想行識という概念は空しい

無眼耳鼻舌身意 
眼耳鼻舌身という概念は空しい

無色声香味触法
色声香味触法という概念は空しい

つまり、概念を否定しているのであって、意味を否定しているわけではないのです。

「色」という考え方はあるけど、「色」という考え方にとらわれるのは空しいことだよ。(以下同様に変形してください)

これがお釈迦様の言ったことでありますので(再び西洋哲学を持ち出せば、存在論的に概念を否定しただけで、存在的な意味を否定していない)、小乗仏教の人はおこっちゃやーよ(しむけん)なのです。

現にサンスクリット語の原典ではこうなっているそうです。
(私は残念ながらサンスクリット語は知りませんので、ネットから引用させていただきます)

玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されているが、サンスクリット原典では「五蘊がありそれが空である」と書かれている。
般若心経navi「空の思想」

般若心経では、冒頭2行目(宗派によっては1行目)に次の言葉があります。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

経典冒頭で五蘊という概念は空しいと、ここでは「無」ではなく「空」という文字を使っているのに注目してください。

そして五蘊とはこういう意味です。

五蘊は次の5種である。「色」は物質的存在を示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用を示す。人間の心身の機構を羅列的に挙げ、それによって人間の生存およびその環境の全てを表そうとしたものである 。

色蘊(しきうん、巴: 梵: rūpa) - いろ、形あるもの。認識の対象となる物質的存在の総称。一定の空間を占めて他の存在と相容れないが、絶えず変化し、やがて消滅するもの。

受蘊(じゅうん、巴: 梵: vedanā) - 感受作用。肉体的、生理的な感覚。根(六根)と境(六境)と識(六識)の接触和合から生じる苦・楽・不苦不楽などの印象、感覚。

想蘊(そううん、巴: saññā, 梵: saṃjñā) - 表象作用。概念的な事柄の認識[。事物の形象を心の中に思い浮かべること。

行蘊(ぎょううん、巴: saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 意識を生じる意志作用。意志形成力。心がある方向に働くこと。

識蘊(しきうん、巴: viññāṇa, 梵: vijñāna) - 認識作用。対象を得て、区別して知るもの。
Wikipedia「五蘊」

最初に、上位概念を「空」、つまりそういうことにとらわれちゃだめだよ、と言っているので、その各論は「無」という言葉を使ってもギリギリセーフだと思います。

そういう風に五蘊を概念で判断することは空しいよ、そうとらえれば例えば「受」「想」「行」「識」は無いのも同じだよ。

お釈迦様はこういっているわけで、スマナサーラ長老がけしからん!とムッとくる話ではありません。

まったくなにも存在しないという虚無主義の考え方すらも否定している。

こういった、誠に奥深い話なわけでした。

さて、空海さんについて書くつもりが長くなってしまいました。

仏教の話ばかりで飽きられそうなので、空海さんのお話はまた別の機会にでも、書いてみたいなと思います。

(^^)/


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