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Alone Again...新宿的特许权(5/全17回)

 新宿的特许权に俺はいた。

 様々な東南アジア系の言葉が飛び交っている。


 みゆきとガード下で別れてから、俺は歌舞伎町にまっすぐ向かった。そしてみゆきの働いている店を右目でちらっと見遣った。しかしみゆきのいないと分かっているキャバクラには何の関心も持てなかった。

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 「新宿的特许权」

 この言葉を俺はみゆきからかつて聞いたのだった。歌舞伎町では路地一本の隔たりが小さな国境となっている。中国、台湾、韓国、タイ、マレーシア……。ありとあらゆる黒社会が、新宿歌舞伎町の路地裏を自分たちの国境線で区切っているのだ。

「シンゴさん、私のお店以外で遊ぶときはあのあたりだけは絶対ダメだよ。日本のヤクザもめったに足を踏み入れないところだから」

 みゆきがタバコを咥えている俺を見かけて笑顔で近寄ってきて、そう言ったことがあった。
 キャバクラ店内の喧騒に飽き、店の外でタバコに火をつけていた。ちょうどその時、みゆきが馴染みの客をエレベーター下まで見送りして降りてきた時のことだった。

 みゆきが見送った脂ぎった中年男はよく見る顔だった。VIP扱いの中国人だ。みゆきクラスがエレベーターで階下まで見送るというのだから、相当の大物だったんだろう。

 俺に寄り添いながら、その大物が50mほど先の角を曲がると、みゆきは囁くように言った。あたかも、50m先の角の男に聞かれると面倒なことになると言わんばかりの警戒心だった。

「そんなに小声で言わなくても、あのデブには聞こえないよ」

からかう俺を無視してみゆきは、
「あの先は『新宿的特许权』(シンスーダトゥアーシューチュエン)よ」
と肩をすぼめた。

「なんだいそれは」

「昔中国に租界ってあったでしょ。列強が勝手に中国利権の縄張りで自国の支配下に置いていたあれ」

「ああ」

 こういうところで、「租界」を意味する「新宿的特许权」という言葉が、中国語の発音で出てくる。そういうところに以前から俺は興味を持っていた。みゆきはやはり、ただしゃべりまくるキャバ嬢とは一線を画した存在だった。

「今の新宿はね、昔の中国の『清』みたいになってるのよ。それぞれの国が中国に自分の領土を勝手に持って、治安も自分たちでやってたわ」

「さしずめ清帝国が新宿で、日本人の土地のはずなのに、中国や東南アジアの黒社会の連中が自分の領土にしちまっているということか」

「うん。それこそ自警団を持っているから完全に租界の治外法権ね。ヤクザも新宿署も理由を見つけ出して、そこには近寄らないようにしているの。もし面倒を起こしても自分たちに勝ち目がないことを知っているから。メンツを守っているわけね」

「おお、怖いな。もちろんそんなところ行かないよ。みゆきちゃんのいる店だけさ」

 俺は軽口を叩いたつもりだった。

「うん。絶対よ」

 みゆきは俺の軽口が分からなかったのか、あえて無視したのか、真顔で俺のことを見た。

 その時、細道に立っていた俺たちの横を、黒塗りの大きなベンツが強引に侵入してきた。歌舞伎町名物の光景だ。一方通行の細い道をベンツやリムジンが無理やり自分の図体をねじ込んでくる。

「じゃまだ」

 パワーウインドウが静かに下り、強面のスジ者が俺たち二人を睨んだ。

「ごめんなさい」

 みゆきは俺の手を引いて店の方に歩き出した。

「あんな連中よりよっぽど新宿的特许权の人間のほうが怖いからね。約束してよ。ぜったいに行かないで」

 みゆきはまだ言っていた。

「ああ、分かったよ」

 俺は別に興味もなかったので、あっさりそう言った。

 でかいベンツは立体駐車場にバックでケツから入れようとして、大きく車体をこすったようだ。さっきの強面が運転席から若いチンピラを引きずり出して殴り倒すのが見えた。

「あんなことしている場合じゃないのにね」

 みゆきが無表情でそう言った。

 俺はとにかく触らぬ神に祟りなしだな、と新宿的特许权のことはそれっきり忘れていたのだった。

 みゆきと別れた俺は、まっすぐに「新宿的特许权」に足を踏み入れた。
 日本語が一切通じない街。そこで俺は、自分の嘘にまみれた偽占い師という立場を忘れることができるような気がした。

 振りほどいても振りほどいても、まとわりついてくる。父親から暴力を振るわれ続けた、自分の惨めな過去。そして、そんな過去から巧妙に目を背けるためにまことに好都合だった嘘だらけの偽占い師という稼業。

 嘘だらけの言葉で分かりもしないタロットカードを広げている瞬間にこそ、俺は本当の自分になれたのだった。

 真っ直ぐ俺を見つめる瞳に、その手の柔らかさに、邪気のない笑顔に、整った乳房に、くびれた腰に、スリットからのぞく艶かしく官能的な、それでいて母親の膝枕を幻視させるような懐かしい感覚を抱かせるその脚に。

 俺の人生の中で、本物と呼べるのはみゆきという女の属性だけだった。

 そのみゆきのことを、娘ともども俺は俺のよって立つ偽物の言葉で蹂躙してしまった。

 拳銃で人を殺傷した人間が、その拳銃を早く土の中に埋めてしまいたいのと同じだ。俺は俺の言葉というちっぽけな凶器を早く手放したかったのだ。

 そして。

 予想通り、アジアの言葉が入り乱れて誰一人として日本語を使わないこの街で、俺は深呼吸をすることができた。新宿的特许权に入った途端、俺は生き返ったのだった。

 自分という惨めな存在がまるで空気になったようだ。空気なら心が傷つくこともない。何度憧れたことだろう。空気になれば父親に殴られることもない。いっそ幽体離脱して、肉体を持った自分が父親に殴られている姿を天井から見下ろして笑ってみたい。俺はそんなことさえ思っていたのだった。

 早く死んで幽霊になりたい。そして弱い自分を嗤い者にして、思いっきり楽しく笑ってみたい。俺が殴られるときにはいつだって、まるで幽体離脱したかのように、自分自身を理科実験室の骸骨の標本のように眺めたものだった。

 不思議なことに、そうすると殴られる痛みはいつでもすっと消えていった。

 俺は何時間も、開放的な気分で新宿的特许权を歩いていたような気がする。俺は幽体離脱をして、この苦しみに満ちた世界を天井から見下ろしていたのだった。


 完全に空気になった俺を一人の女が現実に引き戻した。

「あなた、日本人でしょ」

 紛れもなく日本語だった。


 俺はハンマーで頭を割られたように感じた。瞬間的に体中に冷や汗を浴びせかけられたように思った。実際に顔からは汗が吹き出てきた。

 俺だけは見つからないと、透明人間になる薬を飲んだはずだったのに。実はそれが効いていると思っていたのは自分だけだったのか。

 俺は血走った眼で女の正体を確かめようとした。

 悪魔がそこにいるのかと思って、おれは女の顔を凝視した。


 みゆきそっくりの顔をした女がそこに立っていた。みゆきのように俺の眼をまっすぐに見て、きれいな顔をして微笑んでいた。




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