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Alone Again...租界の裏カジノ(7/全17回)


 俺たちは恋人気取りで腕を組み、新宿的特许权のカジノへと路地をたどった。背の高さもみゆきとちょうど同じくらいで、頭の天辺が俺の顎あたりにある。

 話しかけると視線を合わせるために小姫は上向き加減になる。必然的に眼はコケティッシュな上目遣いとなり、視線は俺の瞳を射抜いていった。

 左腕の感触に小姫の胸の圧迫感を感じる。コートは必要だが、まだ胸を押しあててしがみつくほどの寒さではない。これもまた小姫の自然な振る舞いなのだろう。

 路地を何本も左へ右へと曲がった。それはさながら歌舞伎町の中に人工的に構築されたダンジョンのようだった。ここで仮に小姫が消えてしまったら、俺は二度と表の歌舞伎町には戻れないだろう。そんな気がした。

 俺のそんな心を見透かすように小姫が、無言の上目遣いで俺を見た。そして「大丈夫よ」とでもいいたげに、首を少し斜めに倒して微笑んだ。

不思議な街だった。表の歌舞伎町のように酔客の吐瀉物もなければ、ヤクザのチンピラがクダを巻いているということもない。たまにすれ違う中国人も堅気の人間に見えた。


 目当てのカジノは路地の角の薄暗い雑居ビルの地下一階にあった。分厚い木製の壁にはただ『乐园』という看板だけがぶら下がっていた。

「なんて読むんだいこれ」

 プレートをいじりながら俺は小姫に尋ねた。

「 ルォユェン」

 艶めかしい響きで小姫がつぶやいた。

「この世の楽園っていう意味ね」

「なるほど。じゃあ、楽園に入ってみようか」

 俺は重そうな扉を向こう側に押そうとしたが、小姫にその手を止められた。そしてそのまま、入り口から少し離れた場所に手を引かれていった。

「どうした」

「ひとつだけ注意点があるの」

 小姫は手を解くと振り返ってそう言った。

「ああ」

「ここは日本人入場は禁止なのよ。だからおおっぴらには日本語は一切喋らないで小声でしゃべって。ルール破りが見つかると殴られて外につまみ出されるわ」

「なんだか怖いな、それは」

「私も日本語は使わないほうがいいんだけど、時々こっそり教えてあげるから大丈夫。それに私を呼んでくれた人は実はこのカジノのオーナーなの。日本への中国人不法入国者の総元締めで新宿的特许权の顔でもあるわ。だから私が少々自分勝手なことをやってもだいじょぶだから」

 俺は改めて小姫の顔を覗き込んだ。そんな大物と特別な関係にある女に、俺はずいぶんあけすけなお願いをしたもんだ。

「なあ、小姫」

「あたしはみゆきでしょ」

 小姫はいたずらっぽく笑った。

「い、いやそうなんだけどさ。じゃあ、みゆき…」

「はい、シンゴちゃん……ってなんかSMAPみたあーい」

 小姫が弾けたように笑った。

「あのね、楽しむ分にはいいんだけど、本当に俺みたいなのがここに入り込んで生きて帰れるんだろうか」

「死んで運ばれるかもね」

「え」

「あはははは、真顔になったな。笑える。大丈夫よ、シンゴさんが私のことを裏切らなければね」

「裏切るわけないだろ」

「それともう一つ」

 小姫は俺の言葉など無視して自分の言葉を継いだ。

「みゆきって女よりあたしのことを好きになってくれたら、多分生きて出られると思うよ」

 複雑な感情が俺の心をよぎった。男女のことにかけてはおそらく百戦錬磨の小姫の眼を見た。みゆきには唇にすら触れたことがなかったが、俺もそれなりには女心は分かるつもりだ。

 この小姫の眼は冗談めかしながらも真剣だった。おそらく冗談として処理したら、いきなり容赦ない平手打ちが飛んでくるだろう。俺はその頃はもう、小姫のとんでもなさが少し読めるようになっていた。


「分かった。こんな魅力的な女の子前にしたら他の女のことなんて考えられるわけないさ」

「ほんとね」

「ああ、ほんとだ」

「じゃあ、『みゆきより小姫が好きだ』って言いなさい」

 俺はなんだか中学生に戻って、校舎の裏手に呼びだされたような気分になり、多少頭痛がしてきた。しかし、この小姫ワールドの魅力から抜けられなくなっていたのも事実だった。

「みゆきより小姫が好きだよ」

「もっと大きな声で言いなさい」

「だって、日本語は小声でっていったじゃないか」

「私が許可する」

…………。
姫には降伏するしかなかった。

俺は中国人が視界にいないことを確認してから大きな声で言った。

「みゆきより小姫が好きだよ」

「『よ』はいらない。それじゃまるで中学生の告白大会だ」

 今度こそ本当に頭痛がする…。中学生の告白大会をご所望なのは、姫の方ではなかったのか……。

「みゆきより小姫が好きだ」

 小姫は心底喜んだ顔をして、よくできたと言わんばかりに手を叩いてキスをしてきた。

 どうしてこんな俺のことが……そんな野暮なことは言わなかった。一夜明けて別れた時、小姫も俺もお互いのことなど二度と思い出すこともありはしないのだから……。


 店内に入ると、そこはタバコの煙とビッグバンドの生演奏と中国語が充満していた。

 店内はいわゆる中箱と呼ばれる規模で、店の中央に天井から大きなシャンデリアが綺羅びやかに下りていた。そのシャンデリアの下には、巨大な大理石のテーブルに埋め込まれたルーレットが一台。

 右の奥にはバーカウンターがあり、中国人たちが奇声をあげて酒を飲み交わしている。その横にはジャッキ(ブラックジャック)のテーブル席があり、客はカウンターで酒をもらって静かにジャッキを楽しめるという趣向だ。

 左手には十六人掛けのバカラ席が用意されている。この配置から言って、バカラを好む客が多いことが推察された。つまり、大やけどをしたくないのであれば、バカラの席にはつかないことだ。

 ドル箱の遊戯は、店側も超一流のテクニシャンをディーラーとして雇い入れる。超一流のディーラーとは、決して何をやっても勝つ人間ではない。ルーレットを回したりカードを配ったりする中で、客の勝ち負けをすべて記憶し、その客が上げ調子なのか下げ調子なのかをリアルタイムに把握する。

 上げ調子の客にはさらに煽りを入れ、下げ調子の客はテーブルを立たないように、多少指先に工夫をして勝たせてやる。しかし、その末路は両方とも同じだ。本人はわずか1時間しか遊んでいないつもりでも、実際には徹夜になっており、店を出る頃には数百万から数千万の借金が店に残っている。


「みゆき」俺は極力小さな声で小姫に語りかけた。

「なあに、シンゴちゃん」

「バカラはやめておく。損はしたくないからね」

 小姫の反応は魅力的だった。アメリカ人がやるように親指を立ててGoodを表現し、ウインクするようにして白い歯をこぼして笑った。

「シンゴちゃん初めてじゃないね。どれくらい経験あるの」

「学生の頃遊んだことがあってね。一晩でポーカー100万以上勝ったこともあるよ」

「まったくの素人ではないということね」

 小姫は別に一晩で100万という数字には驚かなかった。小姫の生きている世界を考えてみれば、それは当然だろう。俺は自分の言い方が自慢げに聞こえなかったかどうかが気になってしまった。

「この店のレートは?」俺は肝心なことを最初に小声で聞いてみた。

「全部チップ制になってる。金が10万、銀が5万、銅が1万円。分かりやすいでしょ」

「さすがにすごいレートだな」

 俺は少しビビった。それはそうだろう、ポーカー勝負の最終レイズでNo more bets(ディーラーが掛け金の上積みを禁止するアナウンス)を宣言するまでに、最低でも5枚程度のチップが動く。最低レートの銅を使っても一勝負で5万だ。

「ちなみにこの店では一晩でどれくらい金が動くんだ」

「オープンの日は10億円くらいだって聞いたことがあるよ。完全にお得意様だけのクローズドでは青天井らしい。賭けたければ一勝負1億円とかあるみたいね」

 情けないことに俺は帰りたくなった。勝てない勝負に挑むのは決して勇気がないことではない。むしろ負けると分かっている勝負には近寄らないことが結局勝つことになるのだ。

「みゆき、悪いけど俺、そんな金ないよ」

 小姫は、天真爛漫な顔で笑って俺の肩を叩いた。

「心配ないって。多分そうだろうなと思ったから、シンゴちゃんがキョロキョロ店内を観察している間にチップもらってきたよ、ほら」

 小姫が拓いたジュラルミンのチップケースには、金、銀、銅のコインがびっしり詰まっていた。

 金のチップが左に1列、真ん中に6列の銀、そして最後の3列が銅だった。縦方向に30枚並んでいるとして、ざっとこのアタッシュケースに1500万のチップが入っている。

 後には引けないのか…。俺のみぞおちは熱を持ち、それと反比例するように頭は氷のように冷たくなっていった。

「じゃあ、シンゴちゃんの自慢のポーカーからいこうぜ」

 小姫はそんな俺の内心が分かっているのか分かっていないのか、はしゃぎながらチップケースをどすんと俺に渡し、すたすたとポーカーテーブルに歩いていった。

 小姫が振り返って俺にウインクを投げかけた。

 俺はその瞳に吸い寄せられるように、体を動かした。酒も入っていないのに千鳥足さながらに、よろけまいとポーカーテーブルに向かっていった。

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