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夏目漱石の夏休み  3

3 『漱石の夏休み』と『木屑録』について


 高島俊男の『漱石の夏休み』(ちくま文庫版)とは、漱石が第一高等中学校時代暑い夏休みに出かけた房総の旅行記の現代語訳です。漱石が書いたのは『木屑録』という漢文旅行記。この漢文は静養中だった正岡子規に宛てて書かれたものです。「木屑」というのは、無用のものだがとっておけばなにかの役に立つかもしれない、という意味。子規はこれに批評をつけて漱石に返したのだとか。そういうものを今になって私たちが読むことが出来るというのは、なんだか奇跡的なことのような気がします。百何十年後かに、私が誰かに宛てて書いた旅行記などがこんなふうに読まれることなどきっとないでしょうが…。 訳の後には、「漢文について」や、「日本人と文章」、「木屑録を読む」など、興味深い章が続きます。面白くわかりやすいことはもちろんなのですが、ここでもやっぱり美しい言葉で説明がなされていて、日本人たるものこのくらい日本語を美しく語らねば、と啓発されました。
 明治二十二年、漱石がまだ第一高等中学校の生徒であった二十二歳の時、暑い夏休みの二十日間あまりを、友人四人とともに房総の地に出かけました。その折の見聞を漱石は漢文による紀行文として書き上げました。それが『木屑録(ぼくせつろく)』です。木屑とはつまらないもの、役に立たないものと自ら謙遜して言った言葉だが、ぼくせつの音(おん)からは「朴拙」という意味にも通じているように思えます。
 漱石は学生時代の暑い夏休み、明治22年(1889)に保田に海水浴にやって来ました。友達5人と、昼は海水浴や鋸山散策、夜は酒盛りに囲碁、カルタと楽しく過ごしました。その時の紀行文「木屑録」によると、日増しにまっ黒に日焼けしていく自分を鏡で見てびっくりする漱石が描かれています。
  
 「吾輩は房州へ来てから、一日に少なくて二三度、多くて五六度、海水浴をした。わざと飛び跳ね、子供のようにはしゃぎ、腹をすかせた。食事をたくさんとれるようにしたかったからだ。海水浴に飽きたら、熱い焼けた砂の上に横たわった。砂の熱が腹に伝わり、気分は実に快適である。数日たつと、髪がしだいに赤茶けて、顔や皮膚が黄ばんできた。さらに十日ほど後には、髪はより赤く、肌は日焼けで真っ黒になった。その自分の姿を鏡で見て茫然自失してしまった。」(『木屑録』から)
 
 この『木屑録』は一個の公の著作として書かれたものではなく、親友であった正岡子規に読ませるために書いた一種の手紙でした。ただし、手紙と言ってもずいぶんな長さです。実際、漱石は日常でも結構長い手紙をしばしば書いていました。漱石が『木屑録』という子規への手紙を書くきっかけは、その数ヵ月前、子規から『七草(ななくさ)集』という文集を読まされたことにあります。この中で子規は、漢文、詩、短歌、発句、謡曲、和漢混淆文、雅文という異なる七つの文体を使って七篇の文集を作りました。(それにしても、明治のインテリというのは二十歳(はたち)やそこいらでこういうことのできる教養があったのだから、恐れ入ります)。これを読んだ漱石がとりあえず漢文と詩で批評を書き、その最後に「辱知 漱石妄批」と署した。これが夏目金之助が漱石という号を用いた最初とされています。そして、それだけでは物足らず、夏休みの旅を基に一篇の漢文紀行文を作り、それを子規に示したのです。互いに敬愛し、互いに切磋する若者同士の、覇気と稚気とがぶつかり合う様子がほほえましい。        (つづく)

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