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漱石の日本初10の話題 9(英語対訳)Soseki's First 10 Topics in Japan (English Translation)
漱石の日本初10の話題 9 (英語対訳)⑨ 京都で日本初の路面電車に乗る漱石 漱石は、生涯、四度にわたって京都を訪れました。最初は明治二十五年(一八九二)七月、友人で俳人の正岡子規とともに。二度目は明治四十年(一九〇七)春、入社した朝日新聞に「虞美人草」を連載するためで、三度目は二年後の秋、中国東北部への旅の帰路であり、四度目は大正四年(一九一五)春、随筆「硝子戸の中」を書き上げた直後でした。 営業運転の路面電車が日本で初めて走ったのは、じつは京都でした。内国勧業博覧会
¥100〜漱石の日本初10の話題 8(英語対訳)Soseki's First 10 Topics in Japan (English Translation)
漱石の日本初10の話題 8 (英語対訳)⑧ 文学者による 日本初の「自転車日記」(1902年) 「西暦一千九百二年 秋忘月忘日。(中略) 自転車に御乗んなさい ああ悲いかなこの自転車事件たるや、余はついに婆さんの命に従って自転車に乗るべく否自転車より落るべく「ラヴェンダー・ヒル」へと参らざるべからざる不運に際会せり、は○○氏なり、悄然(しょうぜん)たる余を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼はまず女乗の手頃なる奴(やつ)を撰(えら)んでこれがよかろうと云う。」(夏目漱石『自転
¥100〜漱石の日本初10の話題 7(英語対訳)Soseki's First 10 Topics in Japan (English Translation)
漱石の日本初10の話題 7 (英語対訳)⑦ 日本人初の「卓球」経験者 19世紀末、室内でできるテニスに似た遊びとして「テーブルテニス」が上級階級を中心に親しまれていました。しかし、使われていたのはコルクやゴムで作られたボールとガットを貼ったラケット。その用具は今の卓球と異なっていました。 1900年、今の卓球につながるセルロイド製のボールと羊の皮を張ったラケットを組み合わせた商品「ピンポン」が登場。イギリスで爆発的なヒットしました。 1901(明治34)年3月28日の
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漱石の日本初10の話題 6(英語対訳)Soseki's First 10 Topics in Japan (English Translation)
漱石の日本初10の話題 6 (英語対訳)⑥ 日本人初の英国「ブループラーク」授領者 2002年、著名人がかつて居住した建物や歴史的な出来事があった場所に設置される記念プレート「ブループラーク」が漱石の英国留学中下宿した5番目のチェイス、クラパム・コモン(1901・明治三四年七月~1902・明治三五年十二月)に授与され、この家の壁に飾られました(投稿写真)。日本人としては初のことで、いまだブループラークが授与された日本人はほかにいません。
¥100〜漱石の日本初10の話題 5(英語対訳)Soseki's First 10 Topics in Japan (English Translation)
漱石の日本初10の話題 5 (英語対訳)⑤ 和製漢語の創訳・造語、他 漱石は西洋の言葉を翻訳するため和製漢語を作った人物でもあります。日本の文筆家たちは西洋の書物を翻訳する際に漢字を使用して新しく言葉を作り上げていました。森鴎外や福沢諭吉などと共に、漱石も和製漢語を多く作った人物の一人でした。「浪漫(ロマン)主義」「示威運動(デモンストレーション)」など。 また、日本で初めて「麻雀」を作品(『満韓ところどころ』)の中で紹介もしました。
¥100〜漱石の日本初10の話題 3(英語対訳)Soseki's First 10 Topics in Japan (English Translation)
漱石の日本初10の話題 3 (英語対訳) ⓷ 印税制度創始者 漱石は現代の作家にも大きく関わる制度、印税の仕組みを整えました。それまでの作家が得られる収入は、出版社が買い取った一作品単位の原稿料のみ。『坊っちゃん』の原稿料は一四八円(現在の価値にして約五十万円)だったと知られていますが、もしも作品が人気になり、増版が決定したとしても作家は売り上げを全く貰えず、得をするのは出版社だけでした。漱石はそんな状況を変えようと動きました。記録によると、『坊っちゃん』や『草枕』が収
¥100〜漱石の日本初10の話題 2(英語対訳)Soseki's First 10 Topics in Japan (English Translation)
漱石の日本初10の話題 2 (英語対訳)② 東大英文学科日本人初の講師 東京帝国大学文科大学、英文学科第二号の卒業生(明治二六年)であり、英国留学後、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として日本人初の東京帝国大学(現在の東京大学)英文科講師をつとめ日本人初の英文学科講師でした。1903年37歳の時、第五高等学校教授を辞任し、4月第一高等学校と東京帝国大学から講師として招かれました。38歳の4月に明治大学講師を兼任します。1907年(明治40)二月朝日新聞社入社ま
¥100〜漱石の日本初10の話題 1(英語対訳)Soseki's First 10 Topics in Japan (English Translation)
漱石の日本初10の話題 1 (英語対訳) 文豪・夏目漱石(1867~1916)は2026年に生誕160年、2027年に没後110年を迎えます。それに先立って、夏目漱石の日本初と考えられる10の話題について述べたいと思います。 ① 英国に国費留学第一号 文部省が派遣する国費英国留学日本人第一号は、夏目漱石でした。明治政府は近代化政策推進の一環でいわゆる「お雇(やと)い外国人」を多く採用しました。しかし、明治三十年代あたりから、外国人教師に支払う給与が高額であったことな
¥500藤沢周平『霜の朝』ダイジェスト(英語対訳)12 Fujisawa Shuhei's "Frosty Morning" A Digest (Japanese-English Translation)
藤沢周平『霜の朝』ダイジェスト(英語対訳)12藤沢周平『霜の朝』12 「霜の朝」 江戸中期の超大富豪で、幕府の御用木材問屋となり、苗字帯刀を許されたほどに上り詰めた奈良屋茂左衛門は紀ノ国屋文左衛門と張り合ってきた。それは遊びにおいてでもある。紀ノ国屋文左衛門が派手に遊べば、奈良屋茂左衛門は負けじと江戸に奈良屋茂左衛門ありと示すような遊びを繰り広げたものである。 寛永通宝の通用が廃止されるということを喜兵衛から聞いた時、奈良屋茂左衛門は紀ノ国屋文左衛門もこれで終りだと思った
藤沢周平『霜の朝』ダイジェスト(英語対訳)11 Fujisawa Shuhei's "Frosty Morning" A Digest (Japanese-English Translation)
藤沢周平『霜の朝』ダイジェスト(英語対訳)11藤沢周平『霜の朝』11 「歳月」 「妹のさちが婚家におつえを訪ねて来たのは、家を出て信吉と所帯を持つための金の無心だった。すでに信吉の子を宿していた。おつえは金を包みながら、さちは、かつての信吉と自分の心の交流のことを知っているだろうか、と思った。」 妹のさちが信助と一緒になるので、姉のおつえに金を貸して欲しいと言ってきた。おつえは一時信助と夫婦になると信じて疑わなかった時期がある。しかし、おつえは信助と夫婦になることな
藤沢周平『霜の朝』ダイジェスト(英語対訳)10 Fujisawa Shuhei's "Frosty Morning" A Digest (Japanese-English Translation)
藤沢周平『霜の朝』ダイジェスト(英語対訳)10藤沢周平『霜の朝』10 「怠け者」 弥太平は五十を過ぎても怠け者である。甥の紹介で仕事にありつけたものの、すぐに怠け者であることがばれてしまった。 次第に居づらくなってきたが、その中でもおかみのおこんだけは弥太平を普通に扱ってくれていた。そしておこんが外出する時には弥太平が供としてついていくこともあったのだ。 そのお供をしている時のこと、善助という名前だけは善良そうだが、とんでもない悪人の男に声をかけられた。そして、弥太平に
藤沢周平『霜の朝』ダイジェスト(英語対訳)9 Fujisawa Shuhei's "Frosty Morning" A Digest (Japanese-English Translation)
藤沢周平『霜の朝』ダイジェスト(英語対訳)9藤沢周平『霜の朝』9 「追われる男」 喜助は音吉という下駄職人の家に隠れ潜んでいた。後は、三木蔵がうまく連絡しておしんが訪ねてくれれば逃げ出せるはずだった。喜助はあるはずみで市次郎という職人を殺してしまった。そのために逃げ回っているのである。 その頃、おしんは迷っていた。かつておしんは喜助の嫁になりたかったのである。だが、喜助に捨てられてしまった。それなのに、今更… 追われる喜助の心情描写は、すごい。 Fujisawa Shu
藤沢周平『霜の朝』ダイジェスト(英語対訳)8 Fujisawa Shuhei's "Frosty Morning" A Digest (Japanese-English Translation)
藤沢周平『霜の朝』ダイジェスト(英語対訳)8藤沢周平『霜の朝』8 「禍福」 幸七は以前辰巳屋の手代だったが、今はしがない小間物売りをしていた。その前は井筒屋という店にいたのだが、ある事があって、店を移ることにしたのだ。 幸七は井筒屋にいる時に、店の娘おるいと夫婦にならないかと主に言われたのだが、そのときには幸七にはいそえという女がいたのだ。そのため、この話を断ってしまった。おるいと一緒になったのは長次郎という幸七と同じ手代の男だった。 ある日、昔いた井筒屋の竹蔵という男