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『草枕』、著作の裏側など 6

6 那美とミレーの「オフィーリア」

 「旅の画工は、不思議な一面を持つ那美(宿屋の娘)に出会う。「私が身を投げて浮いているところを、―苦しんでいるところじゃないんです―やすやすと往生して浮いているところを、綺麗な画にかいてください。」「え?」「驚いた、驚いた、驚いたでしょう」女はすらりと立ち上がると、三歩にして尽くる部屋を出るとき、顧みてにこりと笑う。」
 
 謎の美女・オフィーリア。ジョン・エヴァレット・ミレー作の、湖に浮かぶ絵画で知っている人も多いのではないでしょうか?シェイクスピアの四大悲劇の一つ名作「ハムレット」があります。恋人ハムレットに棄てられ父を殺されて、狂気に走ったオフィーリアが、川に落ち沈んでいく場面を描いたとされています。オフィーリアは、長いあいだ憧れとも恐れともつかぬ想いで、ループし続けているイメージです。那美が謎めいた、生と死の美を想定されるかのようなイメージと共に、オフィーリアとしての役割を突如終え、普通の女性としての顔をあらわにした時、『草枕』の物語はそこで終わります。
 漱石は熊本での新婚時代、妻の鏡子さんが入水自殺未遂するという事件があったそうです。そして東京では第一高等学校の教え子藤村操が華厳の滝に身を投げたという事件もありました。そうした水と死という情景がこのミレーの絵とが漱石の脳裏で重なったのかもしれません。小説『草枕』はどうやらそのような漱石の精神世界の中で書かれた作品であるようです。
 
「余(=「私」)は湯槽(ゆぶね)のふちに仰向(あおむけ)の頭を支えて、透き通る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張(しんばり)をはずす。どうともせよと、湯泉(ゆ)のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督(キリスト)の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門(どざえもん)は風流である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択(えら)んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊こわすが、全然色気ない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以(もっ)て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。」                     (つづく)

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