遥と静かなテーブル⑩
第10話:静かな終局
夜風が頬を冷たく撫でる。遥はバーの前に立ち止まり、いつものように静かに深呼吸をした。この場所には何度も来たはずなのに、今夜はなぜか違う重さを感じる。ポーカーのテーブルに座るか、それとも別の道を選ぶか――その選択が彼女の心に響いていた。
扉の前でしばらく迷ってから、彼女は静かにドアを開けた。バーの中はいつも通りの光景。見慣れた顔ぶれが集まり、テーブルにはチップが積み上げられている。遥は自然と足を運び、テーブルの一角に座った。最後の勝負だ。そう心のどこかで感じながら、特に言葉には出さなかった。
カードが配られ、静けさが場を支配する。周囲のプレイヤーたちはいつものように集中しているが、遥の心はどこか別の場所にあった。手元には強いカードが来ている。だが、それを見てもこれまでのような高揚感は湧いてこない。
「レイズ。」
彼女は静かにチップをテーブルに押し出した。プレイヤーたちが慎重に動きを見せるが、遥の心は次第にポーカーから離れていった。これまでの自分が何を求めていたのか、それを追い求めることにどんな意味があったのかが、曖昧になっていく。
リバーが開かれる。遥はフルハウスを完成させ、勝利をほぼ確実にしていた。しかし、その瞬間、何かが彼女の心の中で弾けた。
「フォールド。」
遥は静かにカードを伏せた。対戦相手たちは驚きの表情を浮かべていた。目の前の勝利を手に入れることができたのに、彼女はその勝負を手放した。勝つことがすべてではない――その感覚が、今の彼女にとって最も大事なものだった。
バーを出ると、夜空には無数の星が輝いていた。遥はポケットに手を突っ込み、深呼吸を一つ。勝負を放棄した瞬間、心の中にあった空虚さが少しずつ消えていくのを感じていた。ポーカーを通じて何かを追い求めてきたが、その答えが見つかるのはテーブルの上ではなかった。
「これでいいんだ。」
ふとつぶやいたその言葉は、夜風に消えていく。彼女にとってポーカーは、ただのゲームではなく、心の中の葛藤や孤独、そして自己との向き合いを映し出す場だった。今夜、彼女はその戦いを終わらせたのだ。
歩きながら、遥はこれまでの日々を振り返った。ポーカーにのめり込み、勝ち負けに一喜一憂してきた自分。勝つことで満たされるはずだった心の隙間。しかし、勝ち続けるほどに、その隙間はさらに広がっていった。
ポーカーが教えてくれたもの――それは、勝利だけではなかった。カードを切る音やテーブルの静けさ、そして相手と向き合うその瞬間。すべてが遥にとって何かを問いかけていた。それでも、今はもうその問いに答える必要はない。答えは自分の中にあるのだから。
夜の街灯が彼女の影を映し出し、遠くへと続く道が広がっている。これから何が待っているのかはわからないが、少なくとも今の彼女は穏やかな気持ちだった。ポーカーの勝ち負けがすべてではない。それを手放した瞬間、ようやく自分自身を取り戻したのだ。
「もう、ここには戻らない。」
遥は心の中でそう決意し、ゆっくりと歩き出した。これまでの自分とは違う道が、彼女の前に広がっていた。ポーカーのテーブルに戻ることはないだろう。それでも、あの静かな場所で得た経験は、これからの彼女を支えるものになる。
未来はまだ見えないが、今はそれでいい。静かな夜空の下、遥は一歩一歩確かな足取りで歩みを進めた。これからの人生は、自分の手で切り開いていくのだ。
遥と静かなテーブル-----完-----