「力の指輪」に黒人エルフが出たことによる「差別」論争についての整理

今回「力の指輪」公開に伴い、黒人のエルフが出演したことでTwitter上では多くの争いが巻き起こっている。「黒人のエルフを出すな」「差別主義者は観るな」「作品が面白くなくなる」「ポリコレオブザリング」などなど。
自分はロードオブザリングに思い入れがないので、正直どっちでも良いのだが、ネット上で多くの意見を見ているとどちらも(その通りだなぁ)と納得できるものが多く、どちらにも転んでしまいそうという、自分の矛盾を整理するために記述する。

以下がSNSをざっと見た範囲で見かけた今回のロードオブザリング「力の指輪」に関しての意見。今回は作品を批判している側の意見から考えてみる。それらをまずは対象のレベルとして大きく分けてみる。

①    昨今の風潮に対して
ポリコレを意識させられるので作品がつまらなくなる
②    人種に対して
黒人が嫌い
③    作品に対して
原作にないものを出されると世界観が壊れる
エルフのイメージと異なる
ダークエルフはどうなる
④    俳優に対して
見た目のイメージが好ましくない

といった形だろうか。では今回差別とは何かを考えるにあたって、定義としては大阪市立大学名誉教授 野口道彦「差別と社会」より
差別
1個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、
2合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて
3異なった(不利益な)取り扱いをすること

と定義していく。

差別の多くの問題は2の「合理的に考えて」どうかという部分に由来している。
@黒人のエルフが存在する/しない」は、1社会的カテゴリーに属しているという理由で、3異なった取り扱いをすること。に相当するのは間違いないだろう。その背景に合理的な理由があるかどうか。という部分が問題になっているようだ。詳しくは後述していく。

また、野口道彦によれば規範による支持の程度によって
合法的差別
社会的差別
個人的差別
にわけられるとしている。時代によって社会規範は変わっていき、それらの差別に対して支持が得られるかどうかという部分でそのレベルが変わってくるといった趣旨と解釈している。「差別と社会」には
『社会的差別というのは、ある行為を「差別だ」ととらえる社会規範がある一方で、同時に「差別といえない」と指示したり、黙認したりする集団規範が存在する状態です。
社会的差別は区分されるシンボルとして、民族的もしくは社会的出身、人種、皮膚の色、性、言語、宗教など様々なものが持ち出されることになりますが、見落としてならないのは、差異自体に意味があるのではなく、その背景には力関係におけるアンバランスがあるということです。力関係の優位な立場から、マジョリティとは異なった取り扱いをすることを正当化する論理をでっちあげてきました。』
『さらに、差別を支持・正当化するような集団規範さえも存在しなくなると、差別は個人レベルでのみ行われるようになります。これを個人的差別ということにします。個人的差別とは、差別を正当化する論理がだれからも支持されず、単に個人レベルの好き嫌いといった程度になったものをいいます。』
との記載がある。

では前述の意見が、それらが差別の定義に当てはまるのかどうか。また、当てはまるとすればレベルとしてはどのレベルに値するのかを考えていきたいと思う。合理的な理由があるかどうかに関して、私は作品に関しては目を通したことがある程度なので、wikiを根拠として考えてみる。

①    昨今の風潮に対して
ポリコレを意識させられるので作品がつまらなくなる
 →この意見が正しいかどうかは置いておいて、これ自体はそもそも上記差別の定義に当てはまらない。この意見に対して「そう言う人間はそもそも背景に黒人は出ないものという差別意識がある」とする意見が多いが、それは推測によるものでしかない。また、黒人が出ないものという意見があったとしても、それは作品レベルの話であり今回は後述。
 →そもそも差別ではない。
②    人種に対して
黒人が嫌い
 →これは1、3には相当するであろう。また、その場面や個人、作品などを考慮せずに嫌いと考えるのであれば背景に合理性はないと考えられ、2にも相当するとして差別に値するであろう。前述の定義からそれば一部から社会規範の支持を得る時代もあり、社会的差別に相当していた時代もあっただろうが、現代では社会規範を得ることもなく、レベルとしてはもはや個人的差別に相当するのではないか。

③    作品に対して
原作にないものを出されると世界観が壊れる
 →黒人のエルフがロードオブザリングの世界観に存在する/しないことに合理性があるのかどうか。Wikiを参照すると外見に関して「人間に似ているが男も女も非常に美しく、身長は人間と同じか長身。肌の色は薄めで、髪の色は氏族にもよるが黒、金、銀など」とwikiには記載されており、この知識を基にすれば「合理的に考えて」作品中に黒人のエルフが存在する理由はない、もしくはあっても非常に乏しいと考えられる。この観点から言えば2に当てはまるとは言えず差別とは言えない
 →但し、上記文章はエルフのうちの一群に対して述べたものであり、エルフの種族全体に関してではない。よって、今回描かれた黒人のエルフが存在しない理由とはならない。しかしながら、ここで問題となっているのは知識があるかどうかであり、これらの知識が背景にあったうえで「黒人のエルフが出ることは自分の中のイメージと異なる」と述べるのであれば後述する通り個人的差別となるが、多くは中途な知識のみをもって意見を述べているようであった。それは知識の間違いであり、差別の定義には当てはまらない

エルフのイメージと異なる
 →筆者と同じくそもそも原作についての詳しい記述(前述)を知ることはなく、本人の中に形成されたエルフのイメージに基づく意見も多い。これを「合理的に考えて」黒人のエルフが存在する/しないと言えるか。元々映像化された「ロードオブザリング三部作」や「ホビット」に黒人のエルフが存在しない事や、日本で通常目にする作品群として白人種を連想させるエルフが多いことからそういったイメージが形成された背景は理解できるが、合理的とは言い難い。よってこれらは個人的差別に相当すると解するのが妥当だろう。

ダークエルフはどうなる
 →論点がずれているので差別ではない。また、原作に限って言えばそもそもダークエルフとは『「二つの木の光を見なかった」という意味で暗闇のエルフといわれるようになったのであり、肌の色や邪悪さを意味するわけではない。』(wikiより)と日本でイメージされているようなダークエルフとは異なる。

④    俳優に対して
見た目のイメージが好ましくない

 →これは肌の色と同じく、エルフについて「男も女も非常に美しく」という知識準拠にしたものと、個人のイメージを準拠にしたもの。また、単なる個人の好みの三種類が混ざっている。前二つはエルフという種族に対してのものであり、前述の作品レベルの話であり割愛。個人の好みに関して言えばルッキズムとも捉えられそうだが、今回用いている差別の定義からすれば1「個人の特性によるものではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、」には相当しないと解すのが妥当だろう。よって差別ではないと考える。(「黒人だからこの俳優が嫌い」というのは前述の人種に対してであるため除く)

 これまで書いてきた通り、そもそも「黒人である」という理由で差別されることは、現在の流れとして社会規範から支持を得ることはない
 では、どうしてこんなにも対立構造となっているのか、それは前述の差別に該当するとしても多くは個人的差別のレベルに該当するが、「個人的差別といっても、それが許されるか、許されないかは、単なる個人の趣味や好き嫌いのレベルなのか、私的な領域にとどまるものか、あるいは、当事者同士が対等な立場にあるのかなどによって変わってくるでしょう」(大阪市立大学名誉教授 野口道彦「差別と社会」より)と記載されている通り、同じ差別であってもそれが批判されるべきかどうかはまた別なのである。

明確に記述されているわけではないが
・当事者同士が対等な立場にあるのかどうか
・公的なレベルなのか、私的なレベルなのか

といった部分で考えてみたい。

 まず関係性でいえば、今回でいえば作品に対する消費者からの意見として捉えるならば関係性としては対等。少なくとも作り手よりも消費者の立場が上とは言えないと考えていいでのはないか。
 公的か私的かといった部分に関しては正直それぞれの価値観による所が大きく、これが亜争いを生む原因のように感じられる。Twitterなどのように元々単なるつぶやきだったものが、SNSの発展に伴い現在では政治家などの公人が意見を発信するツールにもなっている。これらを公的ととらえるか私的と捉えるかの違いがあり、私的な呟きをまるで公的な発信として差別主義者として批判されることで、余計に対立構造が深まっていく。

 結局は争いの論点が全く違うところで戦い続けているように見えるのだ。
・どのレベル(風潮/人種/作品/俳優)に対する批判なのかどうか
・作品に登場する合理的な理由があるかどうか
・個人的差別に相当するとしてもその呟きは批判されるレベルでの発信なのかどうか

 これらを一緒くたにしてお互い相手が間違っていると決めつけ罵りあう。相手からの反論があっても意見の交流をせずお互いの論点がずれたまま。という所だろう。
 対立しつつも双方の意見が正しいように見えるのは当然。お互い別の論点を話し合っているのだから。

 ネット上を見ている限り、多くは個人的差別に相当するが、それを「差別主義者だ」と批判する人達も行き過ぎかなという印象。まあ、この辺の感覚が「差別主義者寄りだからそういった風に感じられるのだ」と言われれば「そうなのかもしれないね」としか言えない。

 やっぱり生きてきた環境で形成された価値観が個人の中にあって、それは必ず偏りがあるし、それってそんなに批判されるべきものなのかなと感じるんですよね。

ということで自分なりにすっきりしたので終わり。
(なお、これらはあくまで資料を自分なりの解釈をしたものであり異論は認める)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?