流れ星

いや、無理に信じてくれなくてもいいのだ。
どだい、信じろと言う方が無理な話なのかも知れない。
しかしこれは本当にあった事なのだ。

それは冬の寒い夜の出来事だった。
僕は仕事から帰ってきたところだった。
疲れていた。
しかしポケットに手を突っ込み事態を把握するまで時間はかからなかった。
そして落胆した。
「やれやれ、またやってしまったか」
店に部屋の鍵を忘れてきたのだ。
しばらくぼーっとその場に立ちすくしてはみたものの為す術が無いのは分かり切っていた。
電車はもうない。やっとの思いで終電で帰ってきたのだから。
寒かった。

「何とかなるかも知れない」僕はある種の確信のようなものを抱いて決断した。
当時僕は三階の角部屋に住んでいた。
愛用のアメリカンセルマースーパーバランスアクションの入ったケースをその場にそっと置き、雨どいをよじ登りながら俺は全身で声にならないメッセージを発し続けた。
「怪しい者じゃありません!!」

何度かの失敗の後、やっとの思いで三階のベランダに手を掛ける事が出来たが、それで終わりでは無かった。
僕は反対側の角部屋に住んでいたのだ。


ジャズミュージシャンの生活。
決まった給料も無く、社会保証も年金もボーナスも無い生活。
まさに、綱渡りのような生活を日常的に送っている訳だが、まさか本当の綱渡りをするとは思ってもみなかった。
目的地は2軒先、幅10cmそこらの綱渡りだ。
一軒は部屋の電気は消えており、もう一軒はついていた。
しかしそれがどうであろうと、選択の余地が無いのは明白だ。後戻りはできないのだ。
不思議と冷静だった。
「何とかなるだろう」そして静かに集中した。
ベランダの手すりの上で両手を水平に揚げバランスをとりながら、やはり強く、より強く念じ続けた。
「泥棒じゃありませ~ん!!」

果たして願いは天に届いた。いや、かに見えた。
やっとの思いで俺の部屋のベランダに辿り着いた時、部屋のカーテンは開いており、電気もついていた。
ガラス越しに見る部屋は相変わらず散らかっていたが、それとてむしろある種の懐かしい気持ちを呼び起こすに十分だった。
寒かった。
早くベッドにもぐり込んで部屋の電気を消し、まるで何も無かったかのように眠りたかった。
しかしながら、ベランダのサッシは開かなかった。
まるでそれが自らに与えられた当然の職務を遂行しているかように。


流れ星が落ちる間に願いごとを三回唱えるとその願いはかなう、と言うのは本当である。
つまり、いつ現れるかもわからない流れ星を見て、とっさに願い事を言えるという事は四六時中その願望を具体的にイメージしているというわけだ。しかも三回。
これは、実現可能な願いは常に簡潔でなければならないという事を意味している。
「メジャーレーベルからから買い取り条件無しでCDデビュー。スイングジャーナルとジャズライフにカラーページの広告を、出来ればレコ発ツアーもとってくれれば最高」
これは少なくとも星にかけるべき願いでない。

しかし今、状況はシンプルである。
「開け、開け、開け。」
これほど、簡潔且つ具体的、そして切実な願いがかなう可能性は無いのだろうか、
いや、無いのだ。
その夜は曇っていた。
願い事が天候に左右される、世の中は実際そんなものなのだろう。
寒かった。
僕は少しばかり冷静さを失っていたかも知れない。
しかし今となっては信じられるのは自分だけなのだ。
「何とかなってくれ」僕は静かに集中した。
両手をサッシの鍵の部分にかざし、強く、さらに強く念じた。
「ハンドパワ~!!」
自分のやっている事が馬鹿げているのは解り切っていたが、それ以上に自分の目を疑わないわけにはいかなかった。
動いたように見える。
ほんの少しではあるが、いや、気のせいかも知れない。
しかし、もう一度やる事によってそれは疑念から確信へと変わっていった。
そして何度目かのトライの後、ある手ごたえと共に静かな音がした。
その音は祝福に満ちていた。
部屋の明かりはついていた。そしてそれはこの上もなく暖かく懐かしいものだった。
疲れていた。
俺はシャワーも浴びずにベッドに潜り込み、明かりを消した。

どれぐらい眠っただろう、夢の中で、誰かが呼んでいる。
そして目が覚めた。朝だ。チャイムが鳴っている。
朦朧とした意識を引きずりながら部屋のドアをあけると向いの大家さんが立っていた。

「これ落ちてましたよ」
彼女は重たそうに俺の楽器を抱えていた。

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