自己中になる

悲しいときはそれなりの
苦しいときはそれなりの
それなりの、ができたらいいけれどーー


人前で、悲しいとか苦しいとか、そういうネガティヴな感情を表現するのが苦手。

何かに悩んで傷ついて、吐きそうなくらい苦しい時も、息をするように涙が出る時も、
家族、友人、SNS、だれにも言わず、ただただ耐える。
思い起こせば小学生の頃から、私にとってそれはあたり前のことで、今もほとんど変わらない。

それはきっと強がりであったり、遠慮であったり、諦めであったり、
いろんなものが、そういう感情を封じ込める。


我慢して強くなる、また我慢して強くなる...

まだ20年ちょっとしか生きていないけれど、思う、
それはきっと、少し違う。
心は身体ほどそう簡単に鍛えられない。
我慢って危険なこと。

危険。
そう思うようになったきっかけがある。

あるとき、悲しい苦しい悲しい苦しい...を我慢しすぎた挙句、
眠ること、起き上がること、ご飯を作ること、食べること、歯を磨くこと、ゴミを捨てること、靴を履いて外へ出ること、
まるで何もできなくなってしまったことがある。
息することと、悲しい苦しいの感情以外、まるで空っぽになってしまうような。

病院でうつ病の薬をもらった。
心の病気の診断はとても曖昧なもので、今思い返してみれば、それは本当のうつ病とは程遠い、小さな怪我に過ぎなかったように思う。
だけど当時は、病気か病気じゃないかなんてどうでもいい、ただ普通の生活がしたい、と縋る思いだった。

もらった薬は気休め程度で、効いているのかよくわからなかった。
結局私の場合、なによりの特効薬は友人とのおしゃべりだった。

我慢をやめて、全部話す。
強がりも遠慮も諦めも、すべて取っ払って話した。
他人にそういう話をするのははじめてだった。


ーーねえ聞いて、わたし今、苦しい。

そうやって、自分の弱さの問題に、関係のない他人を巻き込むのは自己中、
そう思っていた。
でもこれは、許されるべき自己中。今はそう思う。

幸い私には、これを受け止めてくれる友人たちがいて、とても救われた。
これから先、きっともう危険な我慢はしない。
もやもやの種は友人に話すし、本当に苦しいときにはそばにいてもらう。
一人じゃ生きられない、というのは明々白々の事実に思う。

とはいえ日々刻々、落ちて沈んで、よじ登ってまた落ちて...を繰り返すわけで、
そこに逐一、他人を巻き込み続けられるほど、自己中にはなれない。
それに、他人に頼りすぎていては、依存とかいう諸悪の根源につながりかねない、とも思う。


そこでもうひとつの自己中を。

ーーだって私は弱いんだもん。

他人や自分の理想より劣ること、それを越えようとか、張り合おうとかする前に、その弱さを認めること。
自分の弱さを他人がどう思うかなんて関係ない。
あ゛〜苦しいな、私ってこんなに弱いんだ。これもできない。あれも知らない。
そうやって弱さを認めれば、なんだ今は無理に這い上がるときじゃないね、って置かれた位置で生きることに向き合える気がする。
曇りを晴れに変えようとするのではなく、曇りをどう生きるかを考える。


そんなこんなで今の私の目標は、ちょっと自己中になること。
noteをはじめた理由のひとつでもある。
他人に向けて自分のことを発信するのは苦手...おこがましい...
確かにそう。でも、やる。
そう、ジコチュ、ジコチュ。



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