見出し画像

神戸製鋼V7の序章 ~ 1989年日本選手権

#StayHome で各テレビ局から過去の名試合が放送されています。新型コロナウイルス感染防止策で試合がなくなったからこそ、見られる映像です。

NHKで放送された、「あの試合をもう一度!スポーツ名勝負 神戸製鋼初優勝V7の序章 1989年ラグビー」

2019年シーズンもトップリーグで優勝、すっかり強豪チームとなった神戸製鋼コベルコスティーラーズの前身、神戸製鋼所ラグビー部の初優勝の試合です。

神戸製鋼所ラグビー部の歴史(創部~初優勝まで)

1928年創部。全国社会人ラグビーフットボール大会(全国社会人大会)の常連ではあるものの、優勝できない時期が60年も続きました。その60年の間には、松尾雄二さん率いる新日鉄釜石の7連覇もありました。

かつては月曜日以外は毎日練習。厳しい時間の拘束で選手が疲弊していました(*1)。それを払しょくするために改革が始まりました。「監督制の廃止=選手による自主運営」「週3回の合同練習」などこれまでの社会人チームになかった施策を打ちます。根気よく続けた施策が実を結び、ついに1989年の全国社会人大会で優勝、日本選手権でも勝利し、日本ラグビー界の頂点に立ちました。

(*1)「友情2 平井誠二を忘れない」より
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000321956

神戸製鋼所ラグビー部の「展開ラグビー」

現在でこそ、小学生からトップリーグまで戦術として持つ「展開ラグビー」ですが、1989年頃の社会人ラグビーとしては画期的だったそうです。当時はFW+ハーフ団の10人で攻撃をする「テンマン(10 man )ラグビー」が主流でした。

他の社会人チームと比べて、①スクラムが強いとはいえず ②LOの林選手&大八木選手が縦に突破できる ③SOとCTBをこなす司令塔・平尾選手がいる 神戸製鋼所には、縦に進みつつ、バックスを使ってコートを横方向にも使う「展開ラグビー」があっていました。(*1)

1989.1.15 日本選手権決勝 試合前

前の週に昭和天皇が崩御、平成になってわずか1週間での日本選手権でした。ラグビー人気絶頂の当時、旧・国立競技場55,000あまりの座席は満席でした。

当時の日本選手権は、大学選手権優勝チームと全国社会人大会優勝チームによる一騎打ちでした。

大学は2年ぶり2回目の大東文化大学。トンガ出身でトンガ・日本両国での代表キャップを持つ、No.8シナリ・ラトゥ選手を中心としたチーム。大学選手権では、当時のスター日本代表WTB吉田義人選手を有する明治大学と同点優勝、トライ数で日本選手権に勝ち上がりました。

一方の社会人は、神戸製鋼所。主将で司令塔であるCTB平尾誠二選手を中心に、LO林敏行選手(日本代表・オックスフォード大学歴代ベスト15選出)、LO大八木淳史選手(日本代表・ラグビー解説者他マルチな才能を発揮)、SH萩本光威選手(日本代表・神戸製鋼HC・日本代表HC・関西ラグビーフットボール協会会長)など、スターが揃っていました。

試合観戦 ~ 試合経過

前半から神戸製鋼が攻めます。当時のTV中継では「テリトリー(地域支配率)」「ポゼッション(ボール支配率)」は出ませんが、おそらくテリトリーは70%程度は神戸だったのではないでしょうか。

しかし、神戸製鋼はゴールライン直前まで行くものの、なかなかトライには結び付きません。両チームともペナルティゴールで点を重ねます。初めてのペナルティゴール以外の得点は、大東文化大学のHO平岡選手のドロップゴール。30m以上はありそうな距離、決してベストとは言えない角度でのゴールでした。
初トライは前半30分の神戸製鋼。ラインを上げてきたところで、密集からSH萩本選手がボールを出すと、SO薮木選手がラインを正面突破します。相手のラインが崩れたところに後ろからサポートしてきたCTB平尾選手にボールが渡り、そのままラインをゲインしてゴールほぼ真ん中にトライを決その後さらにバックスが展開してCTB平尾選手が追加トライを決めました。

後半は大東文化大学が追い上げます。後半10分相手ゴール前10m付近でペナルティをもらった大東文化大学は、再開後に神戸のディフェンスに遮られますが、こぼれ球を処理した後方から入ってきたFL須藤選手が神戸製鋼を振り切ってトライをします。
一進一退の攻防を続けますが、後半20分を過ぎたあたりから、大東文化大学のスピードが落ちてきました。フィットネスは神戸製鋼が圧倒的に上回っていました。後半35分は相手のパスをインターセプトしてそのままトライ。さらに2分後にWTB竹本選手がトライ。完全に相手を突き放しました。

神戸らしい「展開ラグビー」で大東大を圧倒しました。

神戸製鋼所 46 - 17 大東文化大学

試合観戦 ~ ラグビー今昔

試合を見ていると、たった30年なのにラグビーのルールやプレースタイルが大きく変わっていることに気が付きます。

トライは4点
ラグビーが競技として始まったころはトライは0点でした(トライは、キックをするための「挑戦権=トライ」だった)。しかし、トライシーンは人々を熱狂させるため、トライを増やそうという取り組みの中でトライの得点は徐々に上がっていったと聞いていました。1989年当時は4点
点数が変わるということは、ゲーム展開が変わるということを示します。当時はトライ(4)+ゴールキック(2)=ペナルティゴール2回(3x2) 。今ではトライ+ゴールキックで7点なので、ペナルティゴール2つでは追いつけません。とすると、当時はペナルティゴールの重要性は今よりも高かったはず。この試合でもペナルティゴールが多かったのは理解できます。

ラインアウトはリフティングをしない
今では当たり前のラインアウトのリフティング。背が高いFWの2列(LO)・3列(FL、No.8)がリフティングをすると最高到達点は4mに達する場合もあります。当時はリフティングはしない(ジャンパーを支えるのは反則だった)から、それぞれが自分の高さで勝負しました。そのため、後半の大東大のラインアウトでは、低く投げて味方の足元にボールを入れるようなラインアウトもありました。

ラインアウトのボールは上から投げる、とは限らない
リフティングもないから、ボールを高く投げる必要もなかったから、だと思われます。HOが投げるのは変わらないのですが、肩に担ぐようにボールを引いて投げる選手もいたようです。リフティングをする今だったら、肩に担いだフォームで投げることは難しいでしょう。

「ジャッカル」っていうか抱え込み
ラグビーワールドカップ2019で姫野選手のプレーで有名になった「ジャッカル」。タックルで相手を倒した後に、相手がボールを出せないように抱え込むようなプレーです。相手のノット・リリース・ザ・ボールの反則を誘発しやすい反面、自分がホールディングを取られるかもしれないリスクの高いプレー。
とはいえ、この試合では神戸製鋼は積極的に相手の選手ごと抱え込んでいるプレーが見られました。いまよりもホールディングのルールが緩かったのかな?と。
なお「ジャッカル」の語源は、ジャッカルという愛称を持ったオーストラリア代表ジョージ・スミス選手のプレーです。彼がプレーをした2000年代からジャッカルと呼ばれるようになったとか。

観戦を終えて

1988-89シーズン、平尾主将はSOに薮木宏之選手(JRFU広報)を抜擢し、自分はCTBに回りました。自由に動くSOと司令塔のCTB。2つの攻撃の軸が組み合わさった素晴らしいゲーム構成でした。

さらに、優勝インタビューで平尾誠二選手は、なぜ優勝できたのかを聞かれ「一生懸命やったから、に尽きると思います」と答えました。このインタビュー通りすがすがしい試合でした。

そして、この年から怒涛の7連覇が始まりました。
7連覇はただ強かったチームがあった、という歴史にとどまりませんでした。7連覇が止まったのは阪神・淡路大震災の年。そこから立ち上がり、1999年に優勝した時は「WE ARE BACK」と自らと神戸の街を称えました。神戸製鋼所ラグビー部は、神戸製鋼コベルコスティーラーズに変わっても、「神戸」にこだわり続け、神戸とともに歩んでいます。

神戸製鋼所さん・大東文化大学さん。そして放送してくれたNHKさん。ありがとうございました。

サポートは「#スポーツ止めるな2020」活動資金、その他ラグビー関係のクラウドファウンディングや寄付に充てます。「いいな」と思ったら、サポートをお願いいたします。