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No.221 「夢の島」に放置されていた「 第五福竜丸」との偶然の出会い

No.221 「夢の島」に放置されていた「 第五福竜丸」との偶然の出会い

(No.087 を大幅に書き直しました)

歩いていくと、前方に朽ちかけた船が見えた。大型船ではなく、数人乗りの小型船でもない。故郷の福島県いわき市小名浜港で見慣れた数十人程度が定員の、沖合でとどまっていたものか遠洋まで波をかき分け行ったものか、いわゆる「漁船」が半分朽ちた状態で、無造作に陸地に留め置かれている。ここは「夢の島」これから解体されゴミと化す運命かと思われた。

近づいていくと、船の傍に粗末な木の案内板があった。「ええっ!」僕は声を上げてしまった。そこに書かれている船名に、我が目を疑った。

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1975年か1976年の春のことだ。僕は連れ合いの由理くんと酒屋商売に精を出していた。お客さんの中には特に気の合う人もいて(No.114)、宮脇さんはその筆頭だった。僕より一回りちょっと年配の宮脇さんはこの時、自分のトラックを持ち、産業廃棄物処理の仕事をしていた。

何の話からだったのだろう。宮脇さんに「夢の島」に連れて行って欲しいとお願いした。当時まだ、「夢の島」は東京湾側のゴミ捨て場であり許可が無ければ入れない。資本主義の負の部分を見ておきたいとの僕の言葉に、宮脇さんが「しんやくん、好奇心強いよなあ〜」と笑い、次の週に連れていってもらえることになった。連れ合いの由理くんも「おもろそう〜。臭くあらへんかな?」と興味津々だった。

東京湾の埋立地として作られた「夢の島」は、東京都江東区にあり、今現在は、陸上競技場や植物園などの施設を持つ都内有数の面積を誇る公園となっている。若い世代にも人気のお台場や有明を近隣にひかえ、高層ビルに新興の住宅地として開発半ばといった「夢の島」近辺も、1980年頃までは随分と違う目で見られていた。ゴミの最終処分場がこの地区にあり、大規模火災があったり、ハエの大発生があったりと新聞の紙面を賑わしたりもした。

酒屋商売の定休日水曜日の10時くらいに、廃棄物を載せたトラックと共に宮脇さんがやってきた。狭い助手席に僕と由理くんが乗り込み「夢の島」へのピクニックの始まりだ。この時の僕の愛車トヨタカローラバンと明らかに違う、トラックのディーゼル音と振動が体に伝わる。トラックは中山道へと入り、江東区へと向かう。

順調に進んだかと思ったが、珍しく由理くんの体調が悪くなった。慣れないトラックと初夏を思わせる暑さが原因だったか。宮脇さんが心配そうに「しんやくん、どうする?今日行くの止めようか?」と言ってくれた。結局、由理くん一人をトラックから降ろし、電車で家に戻ってもらうことにした。「しんくん、心配せんで。いっといで」由理くんの後ろ姿を見送り、「夢の島」へのピクニックは、宮脇さんと僕の二人でのことになった。今にして思うと、僕も由理くんと一緒に車から降りたら「あの船」との出会いもなかった可能性が高い。

「夢の島」の入り口ゲートに着いた。宮脇さんが係りの人に許可証を見せ、無事にトラックはゴミ捨て場に向かった。左右に広がるゴミの山は、思った以上に荒涼感があった。このまま経済優先で突き進んでいくと、ゴミの山で作る海岸線はどこまでも伸びていくのだろうか。鳥取砂丘より見応えがあるな、そんな思いにも囚われた。

トラックの廃棄物を降ろした後に、宮脇さんとふたり「夢の島」をウォーキングだ。付近をゆっくりと歩くのは、宮脇さんも初めてとのことだった。場所にも因るものか、生ゴミは無く、家の解体作業からの廃棄物が広がる捨て場から、イヤな匂いは届かなかった。東京湾からの海風が爽やかで、東京は海の側だと実感した。僕の住む板橋区で水を感じるのは、近所の石神井川くらいである。

歩いていくと、前方に朽ちかけた船が見えた。大型船ではなく、数人乗りの小型船でもない。故郷の福島県いわき市小名浜港で見慣れた数十人程度が定員の、沖合でとどまっていたものか遠洋まで波をかき分け行ったものか、いわゆる「漁船」が半分朽ちた状態で、無造作に陸地に留め置かれている。ここは「夢の島」これから解体されゴミと化す運命かと思われた。

近づいていくと、船の傍に粗末な木の案内板があった。「ええっ!」僕は声を上げてしまった。そこに書かれている船名に、我が目を疑った。

「第五福竜丸」。僕が生を受けた同じ年、1954年(昭和29年)3月1日、熱帯地方に属する太平洋マーシャル諸島ビキニ付近で操業中、アメリカの水爆実験により放射能被曝をした「あの船」が、雨ざらしの状態で、ゴミ捨て場の片隅に朽ち果て死に絶えるのを待つばかりの状態で、僕の目の前にあった。信じられない思いだった。

第二次世界大戦後、アメリカを中心とした資本主義陣営と、ソビエトを中心とした社会主義陣営との「冷戦」がもたらした核の悲劇の一つの象徴が「第五福竜丸」だった。宮脇さんも第五福竜丸事件の事は知っていたが、その船がここにある事は知らなかったと言う。

第五福竜丸はゴミなのだ。捨ててしまっていい歴史の中のゴミなのだ。誰の目にも、人々の目にも触れないように消し去りたい過去なのだ。長い間の雨晒しが付けた船体側面部の幾重もの縦線は「第五福竜丸」の涙だ。

帰りのトラックの中で思った。第五福竜丸の状態、これっていいのかな?何とかできないのかな。「しんやくん、どうだった?」ぼーっとしていた僕に、宮脇さんが語りかけてくれた。「ありがとう、宮脇さん。夢の島は一度見ておくべきだと思ったよ。最高の観光地とも言えるかなあ。第五福竜丸には、本当にびっくりした。こちらも、観て欲しいって意味で、見るべき観光地かなあ」「観光地かあ〜。なるほどねえ」ハンドルを握る宮脇さんの横顔に陽光が当たり眩しかった。

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1976年6月に「第五福竜丸展示館」ができた事を考えると、僕が見た第五福竜丸は、野ざらし状態の最後の期間だったようだ。保存の運動の実現の最後の段階と言い換えもできる。ただ、1967年から1976年まで、九年間もの間、第五福竜丸は放っておかれたという事実は残っている。第五福竜丸を朽ち果てさせてはいけないのだ。この悲劇を繰り返させないために。「第五福竜丸」が示すのは、過去の話であり、現在の話であり、未来への話なのだ。

この記事の最後に「東京都立第五福竜丸展示館」HP「第五福竜丸とは」のページの全ての語を掲載させていただくので読んで欲しい。責任者の安田さんから許可を頂いている。ありがとうございます。

都立第五福竜丸展示館ホームページより

第五福竜丸は原水爆のない未来へと航海をつづけます
原水爆の禁止と平和を願う被爆国の市民の声により、数奇な航跡をたどった第五福竜丸は、ここ夢の島公園に保存されています。ぜひ展示館を訪れてみてください。

「第五福竜丸とは」
第五福竜丸は1954年3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験により被ばくした静岡県焼津港所属の遠洋マグロ延縄漁船です。爆心地より160キロ東方の海上で操業中、突如西に閃光を見、地鳴りのような爆発音が船をおそいました。やがて、実験により生じた「死の灰」(放射性降下物)が第五福竜丸に降りそそぎ、乗組員23人は全員被ばくしました。その後、第五福竜丸は放射能がへるのを待って東京水産大学(現・東京海洋大学)の学生の航海の練習船「はやぶさ丸」となりました。

「水爆ブラボー」
3月1日に、アメリカが炸裂させた水爆「ブラボー」は、広島に落とされた原爆の1000倍(15メガトン)の破壊力でした。爆発によって砕けた珊瑚の粉塵はキノコ雲に吸い上げられ、放射能を帯びた「死の灰」となり周辺の海や島々に降り積もりました。放射能は広範な海と大気を汚染したのです。

「漁船の被曝」
被害を受けたのは、第五福竜丸だけではありません。日本各地から多くの船が出漁し被害を受けました。54年末までに856隻が放射能に汚染されたマグロを水揚げしています。多くの乗組員が被ばくした可能性がありますが、健康被害など不明な点が多いのです。

「マーシャル島の被害」
マーシャル諸島は太平洋中西部に浮かぶ、たくさんの珊瑚礁からなる国です。アメリカは1946年から58年までここを核実験場とし、67 回もの実験を行いました。実験場とされたビキニ環礁とエニウェトク環礁をはじめ、多くの環礁や島が被害を受けたとされていますが、アメリカ政府はビキニ、エニウェトク、ロンゲラップ、ウトリックの四環礁以外の被害は認めていません。人びとの間ではガンや甲状腺異常、死産や先天的に障がいを持つ子どもが生まれるなど、被害が現れています。また、いくつかの環礁では故郷の島に戻ることができません。

「世界遺産ビキニ環礁」
2010年7月、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により、ビキニ環礁は世界遺産に登録されました。その理由として「珊瑚礁の海に沈んだ船やブラボー水爆の巨大なクレーターなど、核実験の証拠を保持している。繰り返された核実験はビキニ環礁の地質、自然、人々の健康に重大な影響を与えており、平和と地上の楽園とは矛盾したイメージをもち核時代の夜明けを象徴している」と発表しています。同環礁の住民は、いまも帰ることはできません。第五福竜丸の保存第五福竜丸(当時は水産大の「はやぶさ丸」)は1967年に廃船処分となり、解体業者に払い下げられ、船体はゴミの処分場であった「夢の島」の埋立地に放置されました。これを知った市民のあいだから保存のうごきがおこり、「沈めてよいか第五福竜丸」の投書(朝日新聞68年3月10日)や原水爆禁止運動など全国で取り組みがすすめられました。1976年6月に東京都立第五福竜丸展示館が開館し、船は展示・公開されました。

「木造船第五福竜丸」
第五福竜丸は1947年に和歌山県古座町(現・串本町)でカツオ漁船第七事代丸として建造されました。全長約30メートル、高さ15メートル、幅6メートル、総トン数140トンの木造船です。第五福竜丸は戦後の食糧難の時代に遠洋漁業に従事した木造船としてきわめて貴重です。

「第五福竜丸事件」と「ビキニ事件」
ビキニ水爆実験により、第五福竜丸一隻だけでなく多くの船舶が被害を受けたことから、当協会では「ビキニ事件」という呼称を使っています。マーシャル諸島での核実験は1958年までつづけられており、被害を限定的に捉えることは適切ではないと考えています。

東京都立第五福竜丸展示館東京都江東区夢の島2丁目1−1 
夢の島公園内開館時間 9時30分〜16時 / 月曜休館※月曜が祝日のときは開館し火曜休館入場 無料
TEL: 03-3521-8494 FAX: 03-3521-2900
E-Mail : fukuryumaru@msa.biglobe.ne.jp

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