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言葉を”漬ける”

 突然だが、私には言葉を”漬ける”趣味がある。

 これは実に簡単な一種の遊びで、「ある言葉をしばらく使わないと決めて発話・書き言葉において封印し、『もう使ってOK』と思えたら解禁する」というものだ。

 つまり糠床に入れて、発酵させて、また取り出すのである。

 別にいちいち人に「今はこの言葉を封印しています」と言ったりしないし、解禁したからと言って「今日から私はこの言葉を使います」と宣言することもない。だから誰もその開始と終了を知ることはない。私の心の中だけで、ひっそりと行われたり終了したりするだけだ。

 そんなことして何になるんだ、何が面白いんだ、と思われるだろうが、個人的にはけっこう味わい深い遊びだと思っている。
 封印した言葉を、別の言葉でどう言い表すかを考えていると自分の語彙に自覚的になるし、他人がその言葉を使っているときに「この人はどういうつもりでこの言葉を使っているのか」を想像する習慣も身につく。……と書いてみたけど、「だからどうした」感は否めないですね。
 
 

 有用性はともかく、私がこれを意図的にやりはじめたのは、たしか12〜3歳のときである。
 
 きっかけは、「深い」という形容詞に疑問を抱いたことだった。もちろん水深などを表現するときの「深い」ではなく、情緒的な使われ方での「深い」の方である。
 この頃、「深い話だ」とか「深いテーマだ」とか、そういった言い回しをたまたま何度か立て続けに聞くことがあって、「深いって一体なんなんだ?」と思ったのだ。

 世の使われ方を見ていると、どうも「シリアスで根源的で、この世の真実に接近する何かを内包している」みたいなことを「深い」と言うらしい。「他よりもすごい」とか「他よりもよく考えて作られている」とか「よく考えていかなければならない議題だ」とか、そういう雰囲気で使われているパターンもありそうである。

 そういうことを「深い」で片付けるのはいささか安易じゃないか、と私は小生意気にも考えた。
 「深い」とさえつければ、その作品のすごさを理解し、説明できた感じになってしまうのである。「深い」と言いさえすれば何かよくわかっている人っぽくなれるというあたりに、私の警戒心と逆張り精神が発動した。

 そこで私は、この言葉を封印し、もう使ってもいいと思えるまで使用を控え、この言葉がアリかナシか考えてみることにした。
 深いと言っていいのは、誰かの発言の引用のみ。つまり「誰それがこの作品を深いと言っていたが」みたいなのはOK。しかし自分の意見として「深い」は言わない書かない、と決めた。

 さてやってみると、この言葉の言い換えはけっこう難しい。もちろん「浅い」も同様で、自分が何を”深度”の基準として感じているのかを言語化できないと、「浅い」「深い」の材料をわかりやすく解体・並べ替えすることはできないのである。 

 この封印作業による最大の収穫は、そこの自覚を持てたことだ。
  「深い」としか言えないということは、その内訳を自分でもわからない時なのだ。
 逆に言うと、この言葉の内訳を説明できるときか、あるいは「細かいことはわかりません!なんとなくすごいと思いました!」と堂々と言えるときであれば、「深い」を使っても差し支えないのである(私の中では)。
 そこの確信を持ってから、私は「深い」を糠床から出して解禁した。封印から約15年、28歳のときである。なかなかの漬け具合と言っていいのではないだろうか(比較するものがないけど)。
  
  
 これが意識的に言葉を糠漬けにした最初の例だが、その後も私はしばしば、ひっそりと気になる言葉を糠漬けにしながら過ごしてきている。すでに解禁済みの言葉がいくつかあり、まだ解禁していないものもいくつか、というところだ。
 たとえば、25歳くらいのときに「最低でも50まで使わない」と決めて、今も特に口にしたことのない言葉なんかも存在する。我ながら気長なものだ。手塚治虫の『火の鳥』鳳凰編に出てくる、したたる水滴を使って石像を作っていた寺の爺さんみたいなものである。
 

 そもそもなぜこんな手段を思いついたのかというと、中学に上がるまでに、「馬鹿」や「阿呆」などの罵倒言葉を封印していた経験があったからだと思う。ただしこれは自主的に封印したのではなく、親から使うなと言われていたから使わなかったパターンだ。
 「馬鹿とか阿呆とか言ってはいけない」と思っていた間に、私はむしろこの言葉についてよく考えたし、周りの使い方も観察することになった。その中で「この使い方は最悪だ」「この使い方はそんなに問題ないんじゃないだろうか」など、自分なりの価値基準みたいなものができた。腹立たしい相手に対して、「馬鹿」の二文字で怒るのではなく、くどくどと具体的に文句を垂れる執念も培った。
 それで中学に上がる頃、「人に向かって安易に発してはいけないが、使わないことにこれ以上こだわる必要もない」と思い、自主的に解禁するに至った。
 
 この経験があったからこそ、逆に、「その言葉についてよく考えたいときは、一回いっさい使わないようにすると良い」という発想があったのだと思う。

 ふとその言葉を使いたくなるときにぐっとこらえる。そして別の言い回しを考える。

 それをしているうちに、使わないようにしている言葉の持つ意味の強さや便利さ、危うさなどが以前よりも強く感じられるようになってくる。
 あくまで自分の中でだけ起きる”発酵”だが、それを経由させた言葉とそうでない言葉とでは、用いるときの感覚が違ってくる……気がしている。「この言葉を使いたくて使っているのだ」という納得が増すからだろうか。
 
 もちろん、その言葉を使いながらでも、納得を深めていくことは可能だと思う。使わないようにするのはその一手段だ。ただ、わりと発酵をすすませやすい手段ではないかと思う。

 無意識に繰り返し使っている言葉なんかがあったら、たまには糠床に入れてみるのもいいかもよ、と興味のある人にはすすめてみたい。”その言葉”を封印してみることで何が起きるかは、あなたの中でだけのお楽しみだ。

読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。