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実験的連続投稿 #1

 ここに私は一つの実験の開始を宣言する。それは連載紛いの投稿である。やはりある程度「書く」ということに対してプレッシャーを与えていなければ、考えが捗らない。やがて「読む」ことの無為性に自己が圧壊してしまいそうになるのである。とは言っても、この実験はほんの先ほど思いついたものに過ぎないし、途中で気が変わってやめてしまうかもしれない。それにこれから書こうとしていることは、私が今まで書いてきたことの統一性を再度確認する類のものであり、目新しい論説にはあまり手を出せそうにない。全10回程度になることを見込んではいるが、手元に準備できているのは以下に記す序文と、各項目のタイトル程度である。したがってうまくいかないであろう可能性は多分に持ち合わせている。ペースは1週間に一度の更新を目指したい。


 赤信号。歩を止め、待つこと数分。信号は青に変わり、横断歩道を渡る……。
 ごくありふれた日常のひとコマであるが、私が哲学を始めるきっかけはこれだけで十分である。
 私は確かに横断歩道に差し掛かるとき目視により赤信号を認め、歩みを止めた。しかし、そのあと私はもはや信号を見る必要はなかった、というのも私が信号を待つ間、私の背後に左右に私と同様に信号を待つ者が集まり、彼らの気配を意識しておくだけでよかったからだ。青になれば彼らは動き出す、冷凍された時間が瞬間的に融解する、あの空気のざわめきを察知するだけで、私は彼らと同様に行動することができるのである。
 日常的な行動の多くは極めてコンテキスチュアルである。すでに世界の方が情報を蓄積し、そこに私が行為の意味を注入あるいは吸収する必要はほとんどない。ただ文脈に身を委ねるだけである。この事実こそ私が最も恐れねばならないことであり、私と世界を共有する人々に告発したいことなのである。

*  *  *

 私は信号の変わり目を自身で確認せずとも横断歩道を渡ることができた。この一つの事実が私に引き起こしたのは次の二つの問である。
①元来見るべきものを全く見ずして私の行為は完結した、信号の場面に限らずあらゆる場面でこれと似たようなことが起きているのではないか?
②主体的認識ないし判断を抜きに行動が可能である、したがって「している」と思う行為のうちに「させられている」行為があるということは十分ありうる、このような行為にはどのようなものがあるのだろうか?
 私はこれらの問いに対し、実例を挙げる形で回答を提出する。列挙される実例は様々な分野に跨って存在するものである。したがって私の回答が暗に持つ意味は、先に私が述べた恐怖の正体を明らかにすることにあり、これを読者と共有することである(それを私は告発と呼んだ)。そしてこの告発から抽出されるのは我々の我々自身に対する反省的な態度の要請であって、ある意味ではデカルト的懐疑の悪しき再興であるが、もう一方の意味ではソクラテス的自己知の部分的な獲得であることをここに付言しておく。

To Be Continued……

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