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パンデミック下でのリアリティの無い死について考える

コロナ禍は間違えなく昨年より状況は悪くなっている。
昨年の今頃不足していたマスクや消毒液などは普通に手に入るようになり、スーパーや小売店、飲食店にはソーシャルディスタンスを保てる設備も付いて久しいのに、変異株の発生もあり感染はまた急拡大している。
なぜそうなってしまうのか。
自分がコロナに罹患することや、またそれによる死の危険性を、私達がリアルに感じられないからではないだろうか。コロナによる死に対するリアリティの無さは、自分でも驚くくらい希薄だ。

リアリティのない死

一つの病気で一万人以上が亡くなられている状況は、どう考えても異常であり、現在も重症者は増加している。しかし多くの死者が出ても、それは病院であったり隔離施設など起こる事で、身内でなければその死は直接見えてこない。自然災害の当事者に対するように、悲しさに寄り添いその気持ちを共有する事ができにくいのだ。どんなに医療が逼迫しても、見えない死にリアリティは持てない。

昨年は、志村けんさんや岡江久美子さんのような有名人のコロナによる死の報道で、この病気はヤバい!気をつけなければいけない!という気持ちが強かったと感じる。数少ないコロナの危険性に人々の思考が同調した例だと思う。人々に「罹ると命が危ないから気をつけよう。」という共通の意識がなければ、感染者は減らないのではないか。

しかしその意識にも当然個人差がある。1年以上状況が良くならない、ワクチン接種もいつになるか分からなければ、自粛しろと言われても「いい加減にしてくれ!」と叫びたくなるだろう。息抜きに呑みに行って大騒ぎする人達がいても当然と感じる。

生死が関わるリアルな状況を想像し、大切な者たちを守る

だが自分が罹患してしまったら、かなり面倒な事になってしまう。私はダンナと猫3匹で住んでいるが、私が罹患したら在宅であったとしても最低2週間は隔離。ダンナも多分感染するだろう。そうしたら困るのは猫達である。感染者のペットは感染しているとみなされ、普通のペットホテルなどでは預かってもらえない。今私とダンナが自粛生活を続けている一番の理由は、近所の手前や私の仕事の支障とか親の介護への支障云々ではなく、猫達のためである。リアルに生死がかかっているからだ。ペットを飼っているからは、大切な彼らを守らなきゃいけない。拍子抜けしてしまうかもしれないが、これ以上の理由はない。身近な人や者であれば、想像も難しくないと思う。

政府が右往左往しているせいで、コロナ禍が終わる気配はまだ見えない。ワクチン接種が終わっても、すぐにコロナ前の生活に戻れないだろう。しかし希望は捨てたくない。また親しい人達と笑顔で集える日を願って。