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イカズゴケ苔 ②

朝、目覚め、窓から外を確認する。家の前には行列が出来ているが、こうした光景にすっかり慣れてしまったわたしは、特に驚くことはなく、いつも通りに朝食の準備をする。昨日、参拝者から奉納された烏骨鶏の卵をかけたご飯と味噌汁は、わたしたち夫婦用。イカズゴケ苔様にはタイ風のオムレツを用意する。


イカズゴケ苔様になってしまった彼女は、それまで一度もタイ料理など食べたこともなかったのに、突如そうした料理を好むようになった。

苔の本来の生育地がタイの辺りに位置していたからだろうか。土壌は苔の祖国に似せたほうがよいだろうと、わたしはレシピ本を買い揃え、ナンプラーやスイートチリ、パクチーやココナツミルクなどを常備して、食べたこともないタイの料理をせっせと作るようになった。

確かにタイ料理を食べるとイカズゴケ苔はよく育った。参拝者に苔を分け与えても日々色を変え生え続け、苔むしながら人々を幸せに浸(ひた)らせた。


一方、本来の生育地で育つイカズゴケ苔は、食したところで妙薬にも媚薬にもならず、みなを喜ばせる効能はないという。この国の初潮を迎えた娘たちの脇に生えることでのみ、イカズゴケ苔は力を発揮するのだ。それゆえイカズゴケ苔様のイカズゴケ苔は貴重だった。


現在、この国のイカズゴケ苔様は八十八柱(はしら)で、この数は近年変化せず、一柱消えれば、また新たな一柱が生まれるという具合。全国八十八カ所イカズゴケ苔様巡礼は、老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)を問わず人気だった。


わたしはすでにパートを辞め、ご存知の通り夫はすでに会社を退職、つまりわたしたちは無職でありながら、生活はひどく潤っていた。それもすべてはイカズゴケ苔様のおかげ。

参拝者より奉納される物品でわたしたちは家を建て替え、安物の家具を一新し、イカズゴケ苔様にふさわしい『イカズゴケ苔の間』を構えていた。大理石の床に置かれた金の玉座に座るイカズゴケ苔様は、自分の腹を痛めて産んだ子とは到底思えなかった。誇らしかった。わたしは神を産んだのだ。


わたしはイカズゴケ苔様にすべてを捧げた。霧吹きで苔を湿らせ、室温を保つ。イカズゴケ苔様がいつも美しくいられるよう、髪を結い上げ、化粧を施す。参拝者が帰った後には全身をマッサージし、カラダを潤す薬草茶を用意した。けれどもわたしは自分の仕事にどこか満足していなかった。もっとできる。もっとイカズゴケ苔様の力になれる。

そうした思いは日に日に強まっていき、夜も眠れなくなっていった。こんな時は、イカズゴケ苔!と摂取するが、多幸感は一時的なもので、永遠には続かない。わたしはよほどひどい顔をしていたのだろう。


雪降るある朝のことだった。


「今日はこんな天気だし、参拝者もそれほど多くはないだろう。久々にゆっくり出掛けてきたらどうだい」


夫に優しい言葉を掛けられたことなど、これまで数えるほどしかなかったから、これは何か裏があると思った。わたしのいないうちにイカズゴケ苔様を一人占めし、悪巧みを考えているのでは。

例えばイカズゴケ苔をごっそり刈り取り、密売人に売り捌くとか。だから、わたしはつっけんどんにこう答えた。


「結構です」


すると今度はイカズゴケ苔様が口を開いた。


「お母様、わたくしは大丈夫ですから、お父様のいう通り、お出掛けになってくださいませ」


イカズゴケ苔様のお言葉を無下に扱うこともできないため、わたしはわざと時間を掛けて支度して、昼前には渋々家を出た。散歩には適さない雪の舞うなか、ゆく当てもなくご近所を歩いてみる。

イカズゴケ苔様のお世話をするようになってから、家を出ることはほとんどなかったので、近所を歩いているだけなのに、知らない町にきたように思う。次第に旅情を感じはじめ、駅前の平井商店街まで足を延ばす。


商店街にはあちらこちらに横断幕や垂れ幕が張られており『イカズゴケ苔商店街へようこそ。』と書かれている。平井という言葉はどこにもなく、知らぬ間にここはイカズゴケ苔商店街と名を変えていた。


イカズゴケ苔様のおかげか、こんな雪の日でも商店街は賑わっている。名を変えても並ぶ商店は見覚えのあるものばかりで、マダムイクコのおしゃれ着店も、マダムトシコの普段着店も健在で、焼き鳥爺嗅(やきゅう)犬(けん)からはタレの香ばしい匂いが漂っていた。

その匂いを嗅ぐと急にお腹が空いてきて、では久々に焼き鳥を食べようと爺嗅犬の暖簾をくぐろうとしたちょうどその時、数軒先のお店に長蛇の列が出来ているのに気が付いた。わたしはその店に向かって歩き出した。以前にはなかった新しい店だ。


看板には『イカズゴケ苔@the_ya_thai』と長たらしい文字が書かれていた。

開け放たれた店の入り口からは、パクチーやナンプラーの匂いが漂っていて、そこは間違いなくタイ料理の店のようだ。

ほほう、こんな田舎町にもついにタイ料理のようなしゃれた異国の店ができたのだなあと、これもすべてはイカズゴケ苔様のおかげだあ~ありがたやあ~ありがたやあ~と両手を合わせて目を閉じて、列の最後尾に並んだ。


毎日、イカズゴケ苔様のためにタイ料理を作っているというのに、わたしはこれまで他人が作ったタイ料理を食べたことがなかったし、正直なところ、作っているくせにこの異国の料理が苦手だった。


一組出てはまた一組、店の中へと入っていく。お会計を終えて店から出ていく人々の表情は満ち足りていて、それはイカズゴケ苔様の苔を手に入れることのできた参拝者らの顔に浮かぶものと、よく似ていた。気づけば、わたしは列の最前列にいた。


間もなく店内のテーブルに着く。メニューはそれほど多くはなく、壁に掛けられた黒板に、タイ語らしい文字のかたまりが五種類あり、小さくカタカナがふってあった。近眼のわたしは目を細め、カタカナを読みつつ言葉遊びをする。タイ料理のレシピ本を見る度についやってしまう遊びだ。


カオマンガイ 
顔が命の男だらけ


バーミーヘン 
変顔の金髪女のお人形


ガパオムーサップ 
筋肉男のすかしっぺ


ラープムー 
 新発売のコーヒークリーム


ゲーンキアオワーン 
グリーンカレーといいなはれー


「ご注文は?」


 カウンターの中の男が怪訝な顔をしてそういったので、思わず「筋肉男のすかしっぺ」と口にしてしまった。すると男は解読機能を働かせて「ガパオムーサップねー」と返事した。

カウンターの中は客席からは見えないようになっていて、確認できるのは男の顔だけだったが、彼は手際よく調理しているようだった。


 目の前に置かれた挽き肉のバジル炒めは、見るからに美味しそうで、わたしが作るそれとはあきらかに違っていた。口に入れるとその違いはさらに明白となり、猛烈な食欲が押し寄せてきた。ぺろりと一皿食べ終わると次なる注文をした。


「グリーンカレーといいなはれー」


またもや男は「ゲーンキアオワーンねー」と素早く解読した。テーブルに運ばれてきた緑のカレーは、わたしの喉に新緑の風を吹かせ、窓の向こうに広がる雪景色を忘れさせた。


おそらくわたしは他の客と同様に満ち足りた表情で店を出たのだと思う。雪は一時も止むことなく降り続き、わたしの足跡を刻むと同時に消していった。一足進む度に、わたしはイカズゴケ苔様に彼の料理を食べさせたいという思いが募り、それは消えることなどなかった。


イカズゴケ苔様をこっそり先程の店に連れていこうかと考えたが、苔を狙っている悪党どもに襲われる可能性がある。あるいは料理を持ち買ってイカズゴケ苔様に召し上がっていただくのはどうだろうかとも思うものの、やはり作り立てが一番よいに決まっている。

するとおのずと、彼を料理人として雇い入れるという選択肢が残ったのだった。こちらとしては、あの店がひと月に売り上げるだろう金額の二倍を、彼に月給として支払うことが可能だった。


家の前へと続く一本道が見えてきたが、わたしはそれに背を向けて再び商店街へ向かって歩き出し、店の前で客がいなくなるのをじっと待った。


午後四時、最後の客が店を出た。『完売しました』という張り紙を持った男が戸口に現れたので、「さわやかな湯呑み」と声を掛けた。

わたしのカラダは冷え切って、足先は感覚を失っていたが、内部は熱く燃えていた。彼は先程、カウンターで料理を作っていた男と同一人物であるらしく、得意の解読機能で「サワディーカップ」とこたえ、わたしを店の中に招き入れると、温かいコーヒーを注いでくれた。

わたしはまじまじと男を見た。これといった特徴のない外見をしていた。ほんの一瞬よそ見をしただけで、姿形を忘れてしまいそうだった。顔があるのに顔がない、姿があるのに姿がない、それが彼だった。


「なにか御用かしら?」


 男がいった。それは解読の必要のない普段使いの言葉だったので、わたしは安堵して伝えたい言葉をつるつると吐き出した。彼はわたしの言葉を飲み込み消化しつつ、腕を組み「ヒョットスルト、ヒョットスルカモ。」という言葉の羅列を、唇を尖らせ何度も念仏のように唱えていた。


やがて男は「いいわよ」といった。

続いて「明日にはいくわよ」といった。


「明日?」


 そんなに早く来てくれるとは思っていなかったので、わたしは驚いて聞き返す。


「そうよ。明日にはいくわよ。わたしはイカズゴケなのよ」


 男は赤面し、なんだかよく分からない返事をした後に、名前を名乗った。


 龍児(りゅうじ)。それが男の名だった。

(続く)

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