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国家資格という洗脳?

洗脳と教育の線引きはどこにあるのだろうか。

私の職場では教育プログラムという名で、ある年次になったらいくつかのセミナーを受けなければならない。あるセミナーを受け終わった同僚曰く、その日のテーマは、コミュニケーション力を高めるというもので、洗脳みたいだったという。

そう発言した時点で、おそらくその人は洗脳されていない。洗脳とは、自分で考えることなく信じてしまうことだろう。一方で教育は自分で考えることが求められるはずだ。同僚は、その研修が講師の考えの押し付けになっていたと感じたのだろうか。

少し話は変わるが、私の職場では技術士という国家資格を取ることが目標とされている。それを取ると管理技術者になることができ、国の仕事をもらうことができる。

その過去問を眺めながらふと思う。これも洗脳か?

試験では、国の方針や戦略に関する問いが出され、それを踏まえてある課題に対する解決法を解答する必要がある。つまり、国の考えに沿った解答を書いた人が良い点数を取ることができる。自分の頭で考え、導いた答えは、それがどんなに優れていても、もし国の方針と異なっていれば、きっと点数は低い。

国がやりたいことを実現できる従順な技術者を育てるための国家資格という道具。確かに資格を設けることで、公共事業の一定の品質を保つことはできるだろう。しかし、自分で考えることができる技術者を育てるためではない、と自覚的な人はどのくらいいるのだろうか。これは洗脳ではないのか。

型破りという言葉があるけれど、それも型を身に着けてから壊す。やはり一度、国の型にはまって、実力を認められるまでは国に従うしかないのだろうか。その間に失われるものもあるかもしれない。少なくとも、試験の解答として求められているものは、国がやりたいことであり、自分が本気でそう思っているのではない、と自覚的でありたい。


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