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消えた縫い糸

分かっていた。
全ての縫い糸を捨てたのは母だ。
きっとなんの躊躇もなく。

うちの地域では燃えるゴミの日は月曜と木曜。ごみ収集車が来る8時前に、私は母が捨てたそれを仕事前に確認した。
今日は何を捨てているのだろうと。

数週間前から、自分の物で捨てられるものを品定めしては、ゴミ袋に詰める母の姿を、私と父は極力見て見ぬ振りをしていた。

その姿はまるで、自らの命を削り取っていくような行為に思えた。

母自身の数少ない服を捨てることはそれこそなかったが、母の最新作である、紙粘土の女の子の人形を躊躇なく捨てている姿を目撃した時は、さすがに私も止めに入った。

「ちょっと待ってよ、かわいいのに捨てることないじゃん」

私はゴミ袋に捨てられた人形を拾い上げて撫でたが、それも束の間だった。

「何言ってんの。こんなもの遺されたら嫌でしょ? くみちゃんも捨てに捨てられないだろうし、神社にお祓いしてもらって捨ててもらうのも面倒でしょ? いいのいいの」

母はそう言って、人形を私の手から掴み上げるとゴミ袋に雑に投げ入れた。
他の人形に当たったためか、その人形は首から、ぼきっ、と鈍い音を立てて折れた。

母の表情はいつもの家事を済ませた時のようにスッキリとした印象だったが、私の目線から逃げるように背中を向けた。

心なしか小さくなった背中を見て、目の奥に熱が帯びていくのを感じた。

家に溢れていた「物たち」が母の手によって消えて行く。
代わりにその跡には「寂しさ」が充満して行くような雰囲気に見舞われた。

余命を知っていた母自身を含め、私たち家族はごく普通に日々を過ごすことに尽力していた。

普通の生活、
普通の会話、
ただ普通に。
普通に。

父は普通に会社に行き、私も普通に会社に行く。
そして母は普通に、自宅の整理を淡々とこなしていた。

母が捨てた縫い糸たちは、母にとってきっと特別な物に違いない。
縫い糸を使って私の幼稚園の入園式のバックも、帽子やスカート、なんでも手作りだった。
その度に私の友人が羨ましがることを伝えると、母はキラキラとその笑顔を見せて、意気揚々と次の作品に取り掛かるのだった。

その縫い糸が、母の手によって捨てられる時が来た。
昔ながらのはた織り機のようなミシンでカタコトカタコトと何かが作り上げられることはもうない。
当たり前のように聞いていたその音はいつのまにか、始めからなかったのが当たり前かのように消えた。


そして今、
その母の姿は
もうどこにもない。

私は棺桶の前でも泣けなかったし、火葬炉に棺桶が入って行く瞬間にも泣けなかった。

私が3歳の頃、おばあちゃんが亡くなった時の火葬炉の前で泣いていたことを思い出した。
あの頃の私が泣けて、あれから25年経った今の私が泣けないとはどういうことなのか。

私自身が分からなかった。
私は心がないのか、人に対する「感度」が低いのか、私は本当の娘じゃないんじゃないか、自分を責める日々が数日続いた。

母が亡くなって1週間、木崎家は静寂に包まれていた。
父も私も殆ど会話をすることはなかった。
時が止まっていた。

それでも世の中の時間は流れるわけで、母が1ヶ月前に手入れをした庭は雑草だらけになって見栄えが良い状態ではなかった。
そろそろ庭の手入れだけはしなければと、久々に外に出てみると、

そこには雲ひとつない青空が広がっていた。

冬のピリッとした空気が耳の付け根に痛かった。
父が仕事に行って来ると言って、首元にマフラーを巻きながら玄関を後にすると、
私は「いってらっしゃい」と力なく答えた。

ぼうっと父の小さくなっていく後ろ姿を見つめた。父は恰幅が良く、もうベルトではズボンを支えられないため、サスペンダーでそれを支えていた。
その分ズボンの裾が短くなっていた。
肥えた体をのっさのっさと横揺れでまるでペンギンのように歩く姿を見て、私はカッコ悪いとふっと笑った。

と、同時に母であれば何も言わずに時々老眼鏡をくいっと上げながら、裾を長く調整してあげるのだろうと想像した。

縫い糸選びから、その調整まできっと時間をかけることはない。
でもその縫い糸はもうない。
そして娘の私は、そんな器用なことも真似出来ない。

それに気がついた私は、父の背中が消えるのもじっと待てなかった。
3歳のあの頃の自分のように、激しく、でも静かに、その溢れ出る感情に従うしかなかった。

父が振り向かないように祈りながら、二の腕で鼻を隠した。

お父さん、
こんな娘でごめん。
お母さんの代わりになれなくてごめん。
ごめん。
ごめん。
ごめん、、、

そして紛れもなく、私は2人の娘だった。そんな小さなことから泣けるのは、私以外いないのだから。

ここで「感度」を取り戻せたのは人間として健康な証だと思えた。

私は足で濡れた地面を枯葉で覆い、小さく頷いて背筋を正し、踵を返した。

Fin.

#短編小説

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