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「ランボーとパンクロックとシーナ&ロケッツ」

Aは黒、Eは白、I は赤、
Uは緑、Oは青、母音らよ

1977年にテレビジョンのデビューアルバム「マーキームーン」が発売された。
地元のレコード屋さんには売っていなくて松江まで買いに行った。

ヒリヒリとしたギターに絡む官能的なハイトーンボイス。ベトナム戦争終結から二年、当時のアメリカの厭世観やニューヨークの荒廃した都市を想起させると同時に非常にアーティスティックでロマンチックな名盤である。商業的には成功しなかったが、一部のファンには熱狂的に受け入れられた。東京ロッカーズの代表的なバンド「フリクションズ」はテレビジョンの楽曲からつけられたし、デビッド・ボウイはテレビジョン解散後のソロアルバムから「Kingdom com」をカバーしている。

時代性から彼らはパンクとカテゴライズされることもあるが、本人たちはパンクではないと言っているし、私も思わない。
パンクロックの衝動性や暴力性は有してはいるが、彼らはそれ以上に文学的で情緒的なのだ。
そういう意味ではトム・ヴァーレインはスマッシングパンプキンズのビリー・コーガンに非常に近いと思う。

「マーキームーン」のライナーノーツは元「music life」の編集長であり音楽評論家の水上はるこさんが書いていた。
当時ニューヨークに遊学していた彼女はテレビジョンのドラマーと交際していた縁でヴァーレインと同じアパートに住み始め、パティ・スミスとも知り合う。

冒頭のアルチュール・ランボーの詩を水上さんがパティ・スミスのライナーで引用しているのはヴァーレインの恋人だったパティ・スミスがランボーに傾倒していたからだ。
そしてニュージャージーからニューヨークに来たトーマス・ミラーは敬愛する詩人ヴェルレーヌを英語読みにしてトム・ヴァーレインと名乗る。恋人同士だった二人は共著で詩集も出版している。

記念すべきテレビジョンのデビューアルバムのライナーノーツは水上さんにしか書けなかったに違いない。
「これまでわたしたちが比較的安易に使っていたヘヴィメタルということばは、まさにこのレコードのためにあるのではないだろうか」と彼女は書いている。

2023年1月28日、ヴァーレインは73歳で亡くなった。

その一日後に鮎川誠は74歳で死去した。彼もまたテレビジョンに大きな影響を受けていた。

2月1日付の読売新聞の一面のコラムにはこう書かれている。

「ロックスター鮎川誠さんは歌手をしていた女性と結婚したのではなかった。九州大学在学中にロックに夢中な女の子に出会い、結婚。双子の娘が生まれたあと『私も歌いたい』と告白された。妻のため好きな洋楽に出てくるシーナという名前を思いつき、『ロックの悦子(本名)』をもじって、『シーナ&ロケッツ』を結成した。&の前後はどちらも、愛する女性の名前だったのである。約8年前に世を去ったシーナさんを追いかけるように、鮎川さんが74歳で亡くなった」

この洋楽というのはラモーンズの「シーナはパンクロッカー」のことだ。
 
「俺は腕をシーナの首の下に回して抱きしめていた。ずっと離さんかった。『ユー・メイ・ドリーム』のイントロが始まったとき、シーナは静かに逝ってしまった……」
(2015年のインタビューから)
 
 後日、ツイッターにアップされた33年前の記事。一問一答形式で「死に場所を選べるとしたら?」という質問に、シーナは答えていた。「彼の腕のなか」――。

2020年に鮎川誠さんはある番組で「亡き父にそっくりな鮎川誠さんに父の代わりをしてもらい、思いっきり甘えてみたい」という依頼者の家に鮎川さんがサプライズ出演したことがあった。

依頼者の亡き父に扮した鮎川さんは、形見の着物に身を包んで家族とご飯を食べたり、“娘”をおんぶしたりと、まるで本物の家族団らんのように振る舞った。さらに、鮎川さんから「ここまでよく頑張ったね」と声をかけられた依頼者の母は大泣きする。

この「ここまでよく頑張ったね」という言葉は最愛の妻を亡くした彼だからこその言葉であり、自分自身に語りかけた言葉にも思える。

もう30年も前のことだが、シーナ&ロケッツのライブを野外で「聴いた」ことがある。今はない天王寺野音で彼らの音楽を偶然漏れ聴いたのだ。

炎天下の夏の日だった。
鮎川誠は「この日、大阪でライブしたことを忘れません。帰ったらこの日焼けは大阪で焼いたと言います!」と言った。なぜかこの言葉を今でも思い出す。

長女の陽子さんは「父は私にとって世界一かっこいい父親でした」と言う。

これは鮎川誠がギタリストとしてロックスターとして単にかっこよかった、ということだけではなかったのだろう、と思う。

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