見出し画像

引越し

小学校2年生に上がる手前に都内へ引っ越した

母が神エホバを感じた引っ越しでもあった
この時は既に母はバプテスマ(俗にいう洗礼)を受けていた



父の会社との距離も近くなったので
父も帰ってきやすくなるそうだ



子供にとって引越しってなんだかワクワクするし楽しみだ

新しい環境って楽しいよね
新しい学校にお友達に会衆に…
何が起こるのかワクワクしちゃう




そんな私は気持ちと裏腹に新しい環境に馴染めなかった
学校ではお友達の輪に入れなかった
引っ越し先のJWには同世代の子がいなかった

引っ越してからは
父が帰ってくるようになった
だけど祖母がとても恋しくなった

馴染めなくて前に住んでたJWの仲間が恋しくなった
毎日泣いた 

声をあげて泣けなくて
シクシクと布団の中に潜って丸くなりながら泣いた
泣いて 泣いて
泣きながらも

お父さんエホバ…と祈った


新しい学校ではお誕生日会があった
知らない人もいるだろうから言っておくと
エホバの証人は誕生日のお祝いができない

「わたしの聖書物語の本」という今では絶版になった子供向けの書籍には
お誕生日のお祝いの時に残酷な生首がプレゼントとして記載されていた。
(でもほぼ内容を覚えていない)

お誕生日=悪=サタン という認識だ。

「プレゼントを貰うよりも与えなさい」的な教えもあった気がする。
だからなのか、誕生日プレゼントは貰ったことがない。
だけどお友達に日頃の感謝の手紙を書いた記憶はある。

もちろん、子供だましのような学校での「お誕生日会」もNGだ



わたしはまた新たに学校の先生に証言をする。
「わたしはエホバを信じてるのでお誕生日会には参加できません」
確かこのようなセリフだったと思う

その時の先生の対応は、確か「別室で待ってなさい」か「図書室にいてね」か
よく覚えてないけど、とにかく教室にいなくて済むような指示だったと思う

こうして子供の輪に入れなくなる。

自分が輪に入れない理由を、宗教を理由に自ら作ってしまう

仲間に入れない→友達が限りなく少なくなる  だ
当然のことだと思う

さらに驚くことに「ドッヂボール」も禁止だった

戦争だかなんだかを模倣してるからとか言う話だった気がする。

ただこれに関しては、新しい生活になったことを理由に、母に駄々を捏ねてやらせてもらってた。

ドッヂボールやらせてもらう、って変な話だと今振り返ると思う。

だが、わたしはドッヂボールのルールがわからない。
仲間はずれにされてる気分だった。


それはそうだと思う
普通ならルールを知っているんだから
保育園 幼稚園 に行ってないことがこんな所に影響してくる。

普通ってなんだろうと意識し始めたのもこの頃だと思う



前に住んでいたところではピアノのレッスンを受けていたので
ピアノが少しできたり(弾ける曲はもちろん賛美歌)してたので
そういうところを新しい学校でも頑張るようになる。

ただ、悪目立ちしてしまう。



宗教上の理由でわたしはスポーツにも制限がある。
(ローカルルールらしいので実際には差があるらしい)

運動が好きだったけど喘息持ちなのもあって
体育は休みがちだった気がする。

卒業する頃には参加出来ない事があっても気にしなくなっていた。

よりよい行いを率先してやりなさい

と教えられていたのでもちろん、ソレを学校でも行う。模範的な生徒だ

片付けや掃除はもちろんのこと
ひとりぼっちでいる生徒に声をかけてみたり
悪態をつく男の子に一言いってみたりする。

「小さな大人」がもうそこには出来上がっていた。

だけど、保健室に行ったり
人の少ない図書室に行ったり
他の学年のフロアに行ってみたり
何となく用がなくても職員室に行ったり

自分の居場所を探すのに必死だったんだ



一人だけ仲良くなれたお友達がいた
もちろん交友関係にも母が口を挟む
この子は乱暴だから
この子は○○だから
この子は……

話半分で聞いてたからあまり記憶がない

最初に仲良くなった子は同じ都営団地住まいで集団登下校も同じだった

お母さん同士も割と仲良くて


奉仕で訪問しても「とりあえず」話を聞いてくれてたおうちだった気がする。

わたしには在学中のお友達は数える程しかいなかった。
それでも不便を感じたことは無かった。
最大なる友人は神様であるエホバだから

でも、放課後に学友と遊ぶようになった。
共通点は「エホバの証人」であることを知った上で付き合ってくれる子、だ

引越してからは習い事はしなくなった。
放課後遊べるようになったのは3年生からで、それまでは母が遊んでくれていた

お友達と遊びたいと言い続けたわたしの勝ちだったのかもしれない

同学年の子達が遊んでるのを見てよく羨んだ気持ちがあったのは覚えてる

その代わり聖書の個人研究や宿題やったり、それなりに忙しかった

夕方は土手沿いをサイクリングしたり
大きな公園でお散歩したりしながら
偉大なるお父さん、エホバの創造物を感じようってことが多かった。

この頃の弟との記憶は無い。
年齢的には弟は3歳前後だったかと思う

前住んでた地域では車社会だったのだが
新しい家の周囲は自転車で動けたのも大きな違いだと思ってる

新しい会衆では友達にあまり恵まれなかった
(会衆=JWの中の地域ごとの単位のこと)
幸いにも弟と同い年の子供を持つ姉妹がわたしの学区域に住んでいて、弟のお友達って感じで遊びに行ったりもできた

そこのおうちは熱心にムチをしたり宣教活動に力入れたりとかあまりしてなくて、世の人(JWでは無い一般人)の感覚を持ってた家だった。

もちろん、どこにでも御局様のような人がいて、そういう人にも優しくしてもらった。
歌の交わりとかもあって、賛美歌のレッスンがあったり(という名で集まり遊ぶ)
手話が詳しい姉妹がいて教えてもらったり
そういうことしてた。

まだ小学校低学年の時は平和だったと思う。
ただ、人との関わりは前に住んでた地域の方が密接だったので、どうしても寂しく感じてしまう。
私は、前いた会衆の長老に(会衆の中の責任者のこと)
「私のいる会衆に公演しに来てください」とお願いをしてた。

そう、この時既に前の会衆とコンタクトを取っていて、手紙のやり取りも、もちろん電話も頻繁だった。

そのくらい馴染めなくて心寂しい思いをしていた。

新しい環境になじめるようにって
わざわざ電車で1時間以上かかる距離なのに
毎月のように長老兄弟や開拓者の(生活の大半を宣教活動にあてる人)
姉妹が来てくれてたのだ



みんなで奉仕もした

すごくすごく嬉しかった

本当に本当にエホバ神の愛を感じた

エホバとの絆はこれかと思ってた

家族ってこういうことなのか、と

こうやって神を感じるのかもしれない、とおもった







父は引っ越したことにより頻繁に帰ってきた
だけどやはり私たちには優先順位の1位は父よりもエホバだった。
そうする事で、父エホバが喜ぶと思っていた
エホバの証人を信じない実父は父であって父親でない何かだと思っていた。
だから、たまにしか帰らない父と過ごす時間よりも週に3日の集会や宣教活動の方が大事だった。

きっと父なりに新しい環境で
家族としてやり直そうと思ってたんだと思う


でもそうはいかなかった
新天地でも私たちは変わってなかった

父が帰ってこなくなるのにはそう時間はかからなかった。
寂しさを紛らわすかのように父は仕事を入れてた記憶がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?