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もしかしたら。

子供の頃から、ふとした瞬間に思うことがしばしばあった。
「私が見ているものが、他の人には違うものとして見えているかもしれない」

赤い林檎。白い雲。

そもそも、白というふうに私が認識している色が
他の人には違う色に見えているかもしれない。

そして、文字も同じ。

木、これ、本当に「木」っていう文字だっけ。

こう感じ始めると、どの文字も正しくないような不安が湧いて
記しながら違和感しか生じない。


よくいうゲシュタルト崩壊、という現象なのだろう。


そんなことは、わからない程 幼い小学生の当時は
自分がどうも「人と違うものの見方」をしているらしいと
自覚し始めた。

そのことを友人に話しても
「何を言っているのかよくわかんない。気にしなければいいだけじゃない」

軽くそう言われてしまって

・・・ 気にならないんだ。

感性の違いに驚いた。


いや、だからといって、何か得をしたこともなく
むしろ「変な子」レッテルがいくつも貼られていく理不尽を味わう。

小学校最終学年で、担任の教師に言われた言葉は
今も私を縛る呪文のように作用する。

「感受性が強すぎて、将来きちんとした社会性を身に着けられるか心配に思います。元気よくはきはきと明るい中学生になってください」


心配された。(苦笑)

心配するふうを装って、「ダメな子」レッテルを つけてくれた。

余計なお世話だ。

変わり者なりに、大人になり。
順風満帆っていうキラキラな人生でなくても、良いじゃないか。

大人の価値観を、押し付けないで。
心底、子供心に腹が立った。
そして、哀しくて。理不尽で。

私の見ている世界と、周囲が見ている世界は
同じではないと、確信を持った出来事だった。


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