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冬の高尾山は富士山なのか?肩書きに頼らずに生きる

ライターの武田砂鉄さんがcakesで連載しているワダアキ考を毎週読んでいます。めっちゃ面白い。

2022年1月19日更新は、清原果耶「冬の高尾山は、富士山だ。」
東京に住んでいるときは京王線ユーザーだったので、特に印象に残りました(高尾山には登ったことない)。

清原果耶を起用した京王線の広告です。「冬の高尾山は、富士山だ。」というキャッチコピーが書かれた京王線のポスターを見つけた武田砂鉄さん。この言葉の意味について考えます。

清原果耶「冬の高尾山は、富士山だ。」

コラムは、「冬の高尾山は、富士山だ。」……富士山ではないよね?といった内容で展開されていきます。
でもよくよく広告を見ると、このように書いてあります。

澄んだ空気が、日本一の山をいっそう美しく魅せてくれる。山を眺めるために、登る山。
その風景は、登った人だけの特権です。

冬の高尾山は、富士山だ。清原果耶さん起用で京王電鉄が高尾山の「冬」をPR

「冬の高尾山は、富士山だ。」は、「AはBである」ではなく、「Aに来ると、綺麗なBがよく見えます」だった。でも、AにはAの魅力があるのだから、Bに頼らなくてもいいのではないか……と思うのは、Aに思い入れがあるからか?
意図はわかるけど、断言してしまうと、京王線ユーザーは動揺するよね。と言った締めくくりです。

肩書きに頼らずに生きたい

コラムを読んで思ったのは、肩書きに頼らず生きていきたいってことです。
自己紹介するとき、会社名や大学名、役職などの肩書きの力を借ります。過去の実績は「この人は何ができるか?」の判断材料にはなりますが、「今何をしているのか、何ができるのか、どうありたいのか」「どんな未来を作りたいのか」の現在と未来の方が大事だと思います。

僕自身、青年海外協力隊に行った経験を帰国後の面接等で話していました。肩書きに頼っていたわけです。でも、全然面接でうまくいきませんでした。

青年海外協力隊の経験については語れるけど、自分自身についてはうまく話せなかったからです。

ストレングスファインダーを受けたり、毎日日記を書いて内省したりして、自分自身と向き合う時間を作ると、だんだん見えてきます。

僕は、時代背景や問題意識を理解した上で、自分なりの解釈を加えていきたい。簡単に答えを出さず考え続けたい。

それを再確認した、「冬の高尾山は、富士山だ。」でした。


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