見出し画像

アクセサリーメーカーを始めた訳③


〝きれいめ〟エスニック雑貨屋をラーメン屋の二階でぼちぼちやりつつ、卸の方が調子良くなってきた。
卸の一回の納品が100万円を経験すると、売上げが数千円の日もある店舗でお客様をじーっと待っていることがものすごくしんどく感じて来た。
お客様と店頭で2時間くらいお話して、何も買っていただけない、ということもしばしば・・。

元々、それほど接客が得意でなかった。
おしゃれな雑貨屋さん風の気のきいたラッピングも苦手。
細やかな気遣いや気のきいた会話ができないのだ。

卸ではお互い仕事なので、「この商品はいる、いらない」が明確だ。
持ちつ持たれつ、「お互い頑張って行きましょう!」と取引先でお客様なのだが、どこか同士のような関係になってくる。

扱う商品はインドなどで作ってもらったオリジナル商品も扱っていたが、何せ不良品が多い、雑貨なので単価が安くかさばるのでストックの場所を取る・・と相変わらず苦戦はしていた。

店舗をオープンして2年後、卸をメインにしていくことにして、ストックスペースが取れる、神戸市北野の事務所に引っ越した。
そして、今までも扱っていたアクセサリーに力を入れていくことに。
アクセサリーは単価が高いのに、場所を取らないので、坪単価が高い。
当時タイで買い付けていた山岳民族のカレンシルバーは何も営業していなくても、コンスタントにファックスで注文が入った。
マーカサイト(イギリスアンティークのレプリカで、メレダイヤの代わりにパイライトという天然石を用いた安価なシルバージュエリー)もよく売れていた。

インディアンジュエリーを買い付けにアリゾナにも行った。

その頃、子供が生まれたこともあり、しょっちゅう海外買い付けに行けなくなったことから、私が作るオリジナルのコスチュームジュエリー(ビーズなどを用いたイミテーションのファッションとコーディネートするアクセサリー)もシーズンごとにテーマを決めて、ラインナップで作ることに。

タイのアクセサリーはデザインも一般的な日本人好みできれいに作られていて、仕入値が安い割に日本ではある程度の値段を付けても割高感がないので、とても重宝していたが、インドの商品の品質が安定しないことに根気強く依頼することがつらくなり、私がデザインするオリジナルアクセサリーは国内でしっかりと作ることに。

国内で組み立てやメッキを引き受けてくれる工場を探して(これも難航したなぁ)、量産できる体制にした。
店を始めた時には趣味に毛が生えた程度の気持ちでひとつひとつ手作りしていたビーズのアクセサリー。
まさか、毎シーズンのコレクションという形でデザインを考え、国内の工場さんに指示を出して作ってもらうことになるとは・・
徐々に雑貨からアクセサリーだけのメーカー卸として動き出した。

2000年ごろ、時代は不景気を引きずっていたが、まだまだアパレルは元気で小回りがきいていて、現場のスタッフさんが店頭で商品をセレクトをしてくれた。
アクセサリーを手持ちで営業にいけば、その場で販売スタッフさんが買い付けてくれるお店も多かった。
私たちはアクセサリーメーカー卸として本格的に動き出した。

アクセサリーメーカーを始めた訳 終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?