どうして私たちは忘年するのだろう

大晦日。大学4年間はその年その年のことを家族や友人とお酒を飲みながら振り返ったりしたものだけど、今年は実家の自室にサッポロ黒ラベルを持ち込みひとり忘年会をしている。実家のある秋田は例年より雪深く、外は一面真っ白な雪化粧をしている。

その雪を見ていると、それは「去年降り積もった雪とは全然違うものなんだな」とぼんやり思う。そして、もしも雪に命があったら、なんてありもしないことを考える。

もしも雪に命があったら、その雪の一生は冬に空から舞い降りてきたところから始まり、春になって溶けたところで終わるのだろう。だけど、雪ではない私たちはそういうわけにもいかなくて。私たちは、新年になったからといって溶けて消えたりはしない。2017年の次は2018年を生きるのだ。そうなると、私たちはなんのために1年を振り返ったり、なにかを忘年しているのかがわかってくるような気がした。

もしも、雪に命があったら。きっと雪は、1年を振り返ったりなどしない。たくさん「綺麗だね」と言われた思い出を抱えて死んで(溶けて)いくのだろう。それは命の終わりがわかっているからで、その最期のときまでの記憶を忘年してしまったら生きた証が残らない。私たちと雪は、「未来がある」という点で全く異なる。私たちは毎年忘年するけれど、いつもちゃんと新年の目標を立てる。神社に参拝しに行きおみくじを引き書き初めをしたりもする。私たちはいつも、振り返ったところで終わらない。

きっと今日は街中で、ひとりでも大勢でも忘年会が行われている。みんな1年を振り返って、来年はどんな年にしようかと考えている。1年365日を全く予想通りに生きた人はどれくらいいるのだろう?そういうふうに生きれる人がとても少ないからこそ、日本には忘年会という文化が鎌倉時代からずっと残っているのだろうと私は思う。

忘年会をやるということに、「それでも来年こそ」と未来をよりよくしようとする意気込みすら感じられる。私たちが意識せずとも忘年会は、その年の忘年という意味に留まらず、新年という未来のための儀式という意味合いを含んでいるのだろうと思う。だから、きっと忘年会であげられるエピソードって本当の意味で忘年されない。むしろ、自然と新年の目標になっているようなこともあるんじゃないのかな。

そんなことを考えながら、私は私の1年を雪景色を横目に忘年しています。今年忘年したいことをバトンリレーのように来年に繋げられたら、きっと2018はちょっといいんじゃないかと思います。

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