時給650円

高校時代は宮崎で過ごした。

宮崎市内に県立の通信制高校があり、そこへ入学してから間もなく、祖母の友人のつてで病院の厨房のアルバイトを始めた。
時給は650円だった。

今の感覚で言えばとんでもなく低い賃金だが、当時の宮崎県の最低賃金は600円を切っていた。
高校1年生の時給としては、650円でもまだ高い方だったのである。

宮崎県知事として東国原氏が活躍されたことを記憶している人は少なくないと思うが、私が宮崎に在住していた時期は氏の選挙戦よりはるか以前で、当地の経済はひたすら下り坂だった。

駅前のデパートも映画館も経営難でシャッターを下ろす有様だったし、女は大卒で正社員になっても一人では生活していけないと言われていた。一人暮らしがしたいなら公務員になるか、県外に出るしかないと助言された。

ともあれ、私は時給650円のそのアルバイトを一年余り続けた。
約4時間半の勤務中に、トイレに行く間も水を飲む間もない激務だった。
手袋などしていては作業が間に合わないので、素手で業務用洗剤や消毒液を扱い、両手の平の皮が剥けて真っ赤になった。手の甲には細かいヒビのようなかさぶたができたし、爪はボロボロに欠けて絆創膏を大量に消費した。
ハンドクリームは沁みてとても使えないので、祖父にもらったメンソレータムをハンドクリーム代わりに使っていた。

今にして思えばよくやっていたものだと思うが、当時は他に仕事をした経験もなかったし、働くということはそんなものだと思っていた。何より選べるほどの働き口がなかった。
ただ、買い物をしておつりを受け取るときに、真っ赤に荒れた手を差し出すのだけは恥ずかしかった。

その間に稼いだお金で、私は高校の学費と卒業までの小遣いをすべて賄った。
ある意味で人生で最も経済的に自立していた時期だったかもしれないと思う。

友達と外食をするのも、服を買うのも、実家からは一切お金をもらわなかった。
実家住まいであるから、家賃も光熱費も負担していなかったが、友達と長電話をすると祖父に叱責されたので──当時は携帯電話はそれほど普及していなかった──、テレホンカードを買って外から電話をしたり、電話の代用としてFAXを買ってやりとりをしたりした。

高校2年生になって父の援助で大学に進学できることになり、受験勉強をするためにアルバイトを辞めた。

辞める間際だったか辞めた後だったか覚えていないが、バイト先の私以外のパートタイマーの時給は650円よりはまだ高かったらしいことを知った。
私の他は皆主婦業の傍ら働く女性ばかりで、学生は私一人きりだった。

私のいないところで、私の仕事ぶりが遅いこと、手際の悪いことに不満を漏らす同僚達に、祖母の友人が「まだ高校生なのに時給650円でがんばってくれてるんやないの。同じ時給ならともかく、そこまで要求するのはかわいそうやわ」と擁護してくれたそうである。

現在の宮崎県の最低賃金は790円だ。
一方、大阪の最低賃金は964円になった。

不景気の真っ只中にあった当時の宮崎ですら、最低賃金の仕事はそう多くなかったが、ここ数年の相次ぐ引き上げで、大阪市内のアルバイト求人は最低賃金が当たり前になっている。

雇う側もつらいのだろうが、最低賃金という言葉は働く側の意欲を削ぐのも事実だ。

お金だけが悩みの種である今、働くことで必要なだけの額を稼ぐことができていた高校時代が懐かしくなる瞬間がある。

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