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両親2人とも要介護だった⑱

数年前に救急搬送され、盲腸炎の緊急手術。

2ヶ月ほどの入院を経て退院した母。

退院はしても元の施設に逆戻りしただけで

自宅に戻れる訳ではありません。

私たち夫婦でその後よく話していたのは

「あの時亡くなっていたら、

私たちもちょっとは悲しかったかもしれない」

ということ💦

 あまりにも長期間になった母の介護生活、そして酷くなる父の認知症とそれに伴うお金の心配。私たち家族の負担があまりにも大きすぎました。介護の公的な助けを使っていてもそれは私たち家族にとって過大な負荷でした。一時期は兄との話し合いで、両親をペーパー離婚させて母を生活保護申請する?という話まで出たくらいです。もちろん実行してませんが、それくらい逼迫していたのです。父は認知症はありますがその他は至って健康だし、突発的な事故とかがなければ身体的な健康状態を保っていられるでしょう。父は割合長生きの家系です。それを思うと、経済的なことは心配しすぎなくらい考えておかないとかなり困ったことになります。


で、今回の入院。医者の説明に自分の考えを話しました。

本人が苦しまず、大変な思いもしないよう、

最低限の事だけにして欲しい、と言う事です。

病院での治療が功を奏し、母は退院出来るところまで回復しました。

完治ではありません。患部にはカテーテルを通したまま、

だけどこのまま介助を受けながら

施設で暮らすことは問題ないとの医者からの説明でした。

その説明は施設にも伝え、退院して戻る日程も決まりました。


しかしまたその後、母の容態は急変します。

これまで麻痺のあった左半身とは逆の

右半身の脳梗塞症状が起こってしまったのです。

病院から呼び出しを受けて詳しい病状を聞きました。

この症状だと口から食事が取れない事、

食事を取れない場合には点滴か、

より栄養価の高い輸液を点滴するために

肩に近い場所に点滴用のカテーテルを入れる場所を作るか、

胃ろうをするかのどれかになる事を告げられました。

母は意識はあるものの、自分では体を動かせず、

話すこともできません。以前から母は

「病気で食べられなくなったら死んだ方が良いわ」

と言っていたのを私は何度か聞いています。

兄とも電話でやり取りしましたが、

これ以上、医療的な行為はしない事にし

ごく普通の点滴だけで見守る事に決まりました。


こう言う病状だと積極的な治療をしないならば、

大抵は余命2〜3ヶ月だそうです。


完治する治療を受ける訳ではない患者は

いつまでもその病院に入院してはいられません。

看取りのための別の病院を紹介してもらい

そこに転院することになりました。

寝たまま患者を搬送してくれる特別なタクシーを

手配して母を搬送しました。


この病院は仙台市の中心部からも近い場所で、回復の見込みのない患者も受け入れる(いえ、実際はそういう患者のみ受け入れる?)病院でした。こういう病院は一般の病院とはちょっと仕組みが違うのか入院が長期になっても患者として最期まで看てくれます。ほぼ皆寝たきりで自分で身体を動かすことも出来ない患者ばかり。点滴やその他のチューブにつながれ生きながらえている状態です。積極的な回復のための治療ではなく命が続く限りは面倒を見てくれる場所。言い方は悪いですがそんな病院です。こういう状態の病人を家で家族で見ることなど現代ではほとんど無理でしょうから、こういう役割の病院も必要です。1日ごとにオムツなどの看護に必要な消耗品のセットを業者と契約して支払うやり方になっており、入院が長期になっても病院が損をしない仕組みになっているようです。転院してすぐに担当の医師からこの後のことについて説明を受けました。ここに入院したらあとは長くても2〜3ヶ月程度の余命であること、そして病状がいつ急変してもおかしくないので近しい人にはそのことを知らせておく事、そして霊安室が無いので亡くなったら夜中でもすぐに搬送してくれる葬儀社を見つけておく必要があること、等々。私は事実として淡々と話を聞いていました。その病院は見舞いに行くと、3階建ての鉄筋の病棟にほぼ満床状態の患者がいるにも関わらず、病棟全体が恐ろしいほどに静まり返っているのが何とも言えない感じでした。必要があって見舞ってもあまり嬉しい感じはしない場所でしたね。


新たな看取りの病院に転院した母は

その約2ヶ月後に静かに息を引き取りました。

満85歳、新しい元号になる10日ほど前でした。

本当に長い長い介護生活でした。

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↑家族でお出かけの写真。母と兄、私。昭和40年代初頭くらいかな?

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