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母が要介護になってからのことを思い出した。最初に倒れたのが今頃の季節だったんだよね。

*表題の写真は3年ぶりで開催された、今年の仙台青葉まつりのまつり装束の参加者さんたち。決まってますね!

みけ子の親、特に母みけの最期の辺りの事を思い出していた。このnoteにも多少介護していた時のことは書いているが、あの辺りの自分の気持ちを思い出すと懐かしさなど微塵もなく、ウンザリした気分がいまだによみがえる。

母みけが最初に倒れた時、季節は初夏。5月か6月くらいだったと思う。まだ長女が2〜3歳頃だったよ。ちょうど母みけが倒れる寸前の5月半ば、仙台では毎年恒例の「仙台青葉まつり」が開かれ、長女(こみけちゃん)にお祭り衣装を揃えて着せてやったら大はしゃぎだった。ばぁちゃんと一緒に写真を撮ったのが健康だった頃の、孫と撮った最後の写真になっちゃった。

親みけの人生は戦前戦後に生きた人としては割合自由に幸せな人生だったとは思う。だけど、要介護が20年以上という最期をたどるのはイヤだよ。

みけ子の母は62歳の時に脳梗塞で倒れて左半身麻痺になり、86歳で死ぬまで20数年間要介護の人生だった。人生の1/4が要介護だったことになる。

要介護になった時から娘である自分が面倒を見ていた訳ではない。最初の頃は半身麻痺と言ってもまだ症状は軽かったし、食事を作ったりなどはある程度自分でこなしていた。戸建住宅に父と住み、老老介護で何とか過ごしていたよ。

みけ子の母(母みけ)の家系は、高血圧や糖尿病体質の人が多く、母みけの兄(伯父)も脳疾患だったし若い頃からそういった体質について警告は受けていたらしい。

そんな母みけだったが、病気をたくさん持っている割には心臓が丈夫だったのだろう。病院に搬送されても結局、手術を受けたり治療をされてまた復活、退院してくる。

赤ん坊だった長女とじぃちゃんばぁちゃん

介護施設から何度目かの入院で「これが最後の入院にならないか?」とみけ子は密かに期待していた。もう介護に自分の体力を持って行かれるのも、両親の年金とわずかな預金だけで家計を回すのにも疲れ果てていた。入ってくる年金のほぼ全てが入所先の介護施設の支払いにまわって、それでも足りなかった。仕方がないとはいえ、もうたくさんだった。

自分の年齢が、親が倒れた時の歳に近づいていく。「自分がそうはなりたくない、ならないぞ」と思っていても人の生き死には自分でコントロール出来る訳もない。

せめて暴飲暴食を避け、身体をこまめに動かすことを心がける。毎日このnoteを綴って頭脳の働きも出来るだけ止めない。新しい未経験な事にも興味を持ち続ける。そんな小さな心がけを続けるしかないと思っている。



↓NATIONALの刻印のある金属製のブラケット。古い家から解体の時に取り外された物だと思います。電気製品メーカーのナショナルと関係あるのかは分かりません。




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