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蒋経国という生き方#02/モスクワ中山大学

「蒋経国がモスクワで通った学校はモスクワ中山大学という。コミュッテルンが外地の共産党幹部の養成を目指して1921年に設立した東方勤労者共産大学クートヴェ(КУТВ)から、中国人留学生だけを独立させて25年に立ち上げた大学だった。」
「中山って、孫文のことでしょ?」
「ん。孫文の意思を反映したんだ。孫文は中国という国を作るにはもっと沢山のインテリジェント有る革命家が必要だと思っていた。中国共産党とモスクワがこれに応える形でこの大学を作ったんだ。この学校の卒業生は後に中国政府の中心人物になっていった。・・名前を挙げると。
中国人民解放軍建軍の父といわれる朱徳。現代中国の方向を定めた鄧小平。伝説的な革命家葉剣英。ほかに烏蘭夫、林伯渠、徐特立、董必武、楊之華、楊子烈、楊尚昆、廖承志、何叔衡、施静宜などなどなど・・」
「なんか呪文みたいね。」
「蒋経国は、大学ではニコラと呼ばれていた。中国名は発音しづらいからね、みんなロシア名を付けられたんだ。彼はほぼ2年間で単位を全て取得している。そして27年に帰国申請をしてるンだが、むろん許されるわけもなく、そのままモスクワで勤労奉仕を命じられている。
ファイナ・イパーチエヴナ・ヴァフレヴァと出合ったのはこの頃、モスクワ郊外の工場やアルタイ金鉱やウラル重機械工場で働いていたときだ。二人は35年にモスクワで結婚している。二人が帰国したのは37年の3月だった。蒋経国は27才になっていた。」 
「12年もモスクワに幽閉されていたの?」
「そうだ。思想が血となり肉となる時代を、蒋経国はモスクワで辛酸を舐めながら過ごしたんだ。ファイナとの出会いと愛は、彼の強い心の支えになったに違いない。
蒋経国は帰国すると、ファイナと子供たちを母・毛福梅に預けている。彼自身は揺籃の上海へ、父の許に戻った。」
「蒋介石はそれを許したの?」
「許さざるを得なかっただろう。当時上海はあまりにもMDなところだったからな。誘拐謀殺が日常茶飯事だった。誘拐謀殺は蒋介石のお家芸でもあったしな。その効果については知り尽くしていただろうし。」
「なんかものすごい話ね。」 
「帰国後、蒋経国は父の命令で江西省南昌/省政府保安部隊の訓練教師を務めている。そして行政督察専員兼県県長へ進んだ。南昌から上海へ戻ったのは1944年だ。三民主義青年団中央幹部学校教育長に任命されている。戦後は中央政治大学の教務長を勤めた。」
「教育者として生きたのね。」
「ん。しかし時代は彼が象牙の塔に棲むことを許さなかった。 戦争維持のために、蒋介石が元札を乱刷した結果、国民政府側中国は天文学的インフレに陥っていた。これが蒋介石が負ける最大要因になっていくんだが、その対応処理を蒋経国は命じられたんだ。
出来るわけのない戦いを命令されたわけだ。いつてもそうだった。蒋介石は息子蒋経国に無理難題を押し付けたんだ。」

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました