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堀留日本橋まぼろし散歩#18/日本橋・魚市場#02

日本橋魚河岸の始まりについて『日本橋魚市場沿革紀要』を引用しよう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/992034/1/1
融魚市場沿革紀要上卷である。
「日本橋魚市塲之沿革
日本橋租魚問屋ノ濫觴丿大畧ヲ舉裕クレハ其昔天正十八年德川氏開國
ノ際摄州西成郡佃村名主森孫右衛門始メテ佃大和田兩村ノ漁夫三十
餘名ヲ卒ヘテ此地ニ來リ各所ノ河海ニ於テ漁業ヲ營ナマシテ請シ
ニ許サレ而シテ日々其獲ル所丿魚類ハ幕府丿膳所ニ供シ
其殘餘ヲ市街ニ販賣セシガ追年同業ヲ營ナム者增加シ隨ヲ賣却ノ途
モ廣盛セシカハ慶長丿頃ニ至リ森九右衛門等其幕府ニ納セ
シ殘餘丿魚類ヲ引受ケテ之販賣スルニ便益ヲ謀リテ賣塲ヲ日本橋
本小田原町ニ開設セリ自後府下ノ繁盛ヲ加フルニ從ヒ遠近丿河海ョ
丿*魚物 運送來y賣買上益々盛 》=趣》故本小田原町本船町河
岸ヲ合テ市場ヲ開クニ至レリ」

前出『江戸名所図会』「魚市」の項にも「船町・小田原町・安針町等の間悉く鮮魚の肆なり。遠近の浦々より海陸のけぢめもなく、鱗魚をここに運送して、日夜に市を立てて甚だ賑へり」とある。

日本橋魚河岸は、摂津から越してきた漁民たちが魚を幕府の膳所台所に供し、残った魚を小田原町河岸で一般に販売したのが始まりのようだ。それが本船町へ拡がり、近接地域の長浜町そして安針町といった風に日本橋川北岸一帯に拡大していった。
この摂津からの漁民と、先住の漁民との間には当然、深い確執があった。その確執はそのまま明治の御代まで引きずるのだが、それでも摂津の人々は、問屋株、仲買株、納屋株、板舟株等の権利を独占し、他の問屋への納入を禁じた。そのことが余計に確執を生んだようだ。

川の上を道路が覆っている日本橋側から、当時を偲ぶことはできない。川岸に立って話をしても何も昔日に繋ぐ縁はない。
「お城に収める魚ということで利権を持ったわけだが、そんなのは口実で最初から魚は陸揚げされた此処で売られたんだ。まずは舟の上でね。舟板といった。これが海岸沿いに魚を置く納屋ができると、その納屋の店先に幅四尺五寸、奥行1間の板を磐台等の上に置いて売ったんだ。これがでかい商売になって行った。」
「ぜんぶ摂津の漁民の権利だったの?」
「ん。そこから始まった。それで次第に分化して、魚を獲る人/魚を売る人に分化していったんだ。そのうち魚市場の周囲に他商売の人々も集まるようになった。たとえば、鰹節、海苔、練製品など海産物の店舗とかね。山本海苔店、鰹節・乾物の八木長、震災後京橋に移った山形屋海苔店、蒲鉾やはんぺんなどの練製品の神茂、佃煮の鮒佐、にんべんの鰹節伊勢屋なんて老舗が出来て言ったんだ。そして、しまいには芝居小屋や酒屋が出来て三業地化していったんだよ。」
「三業地?」
「芸妓屋、待合、料理店の三業が集まるところが三業地。日本橋はすぐ南に元吉原が有ったしね。産業は極めて速く台頭した。」
「元吉原?吉原って、この辺りに有ったの?」
「ああ、いまの浜町あたりだ。この辺りが市街地化したことで、浅草に移転したんだ。明暦大火がきっかけになった」
「知らない話が、ポンポンとでてくるわ。なぜ花街が昭和時代まで残ったのか、理由がよくわからなかったけど・・要するに遊郭が有ったからなのね。それが核にあったから、遊郭が無くなった後も花街として残ったのね」
「ん。そういうことだ。一石橋から江戸橋の間の北河岸一帯に汐待茶屋・飲食店などが軒を並べていた。そして向いの南河岸の四日市に鮮魚でない塩魚干物を扱う問屋が並んだんだ
「棲み分けしたのね」
「そうだ。その隆盛は明治の御代に入っても続いた。それが関東大震災で灰燼と化したんだよ。大正12年だ。東京市は、日本の中心地に担っていた日本橋をさらに有効利用するため魚市場を築地の海軍ヶ原と呼ばれた築地海軍技術研究所用地に移転したんだ。それが築地の魚市場の始まりさ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました