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最初は麻布十番の裏路地で、世界平和のために侵略者と戦っていたセーラームーンの叫ぶ「愛」と「おしおき」を考えながら初期キリスト教の進化を見つめる

西暦476年の西ローマ帝国滅亡はキリスト教を存亡の危機へ追いこみました。
言うまでもないことですが、ローマの地を席巻したゲルマン人は全くの異教徒の群れです。一部キリスト教異端派の教義を取りこんでいた一派は有りましたが、乱立したゲルマン人の国家で使用されていた宗教は彼ら独自のものだったのです。
当然、被征服者であるローマ人は、そのゲルマン人が持ち込んだ宗教に強く揺らいだ。元来、ローマは多神教の国家でしたから無理もない話です。第一キリスト教が国教化されたのは、国家滅亡騒ぎが起きる直前、392年でしたから、心情的には「ご利益関係」が判りにくいキリスト教/一神教より、昔から連綿と続いていた多神教の方がなじみやすかったのかも知れません。ちなみにキリスト教が公的に「新興宗教」として認められたのは313年のミラノ勅令からです。それまでは邪教であり忌み嫌われる宗教だったのです。
西ローマ帝国の滅亡は、ローマ・カトリック教会に存続の危機をもたらした。致し方なく東ローマ帝国を頼って、彼らはアドリア海の向こうへ遁走します。教徒たちは捨てて行かれたのです。

ちょっとだけ簡単にローマにおけるキリスト教の成立と推移を整理を兼ねて辿ります。簡単に・・
紀元30年ころ(キリスト死後30年ということ)イエスの一番弟子だったと名乗るペテロという男が、ローマ帝国の中で生活しているユダヤ人たちを相手に「救世主イエスに従え」と言いだします。彼は救世主を求めるユダヤ教徒の間に、「ついに救世主は現れた」とユダヤ教の新興宗教を広めたのです。
当時のユダヤ人は、最下層の人々で圧政に苦しんでいた。救世主を求めていた。ペテロはそれに応えたわけです。

それにインスパイアされて非ユダヤ人だったパウロがイエスを主とする新興宗教を起こします。
パウロがベースとした宗教は、ペテロのそれではなく、当時下層階級で広く信じられていたミトラ教でした。ミトラ教は現生ご利益に徹底した判りやすい宗教だった。パウロはその構造と儀式・教義をそのまま引用して、中心にミトラではなく「神の子」キリストを置くことで、より判りやすい一神教を編み出したのです。
既存勢力に似たものにすれば、受け取り側にとって理解しやすく、信心対象の切り替えが比較的容易ですから、彼はミトラ教を「分かりやすく・使いやすく」することで、彼のオリジナルな宗教の急速な拡大を図ったわけです(小池都知事みたい)

一方、布教相手をユダヤ人だけにしていたペテロ・キリスト教は販路(信徒)拡大に伸び悩んでいました。
この二つのキリスト教が、キリストネタということで融合します。
A>オリジナルを取り込むことで、より強固な商品(信仰)の充実を得られるパウロ=キリスト教。
B>販路(信徒)拡大に伸び悩んでいたペテロ・キリスト教。
二つは利害が一致し、統合が為されたわけです。
しかし両者の間にある「マーケットを何処に求めるか」のスタンスの違いは、長く二者の間に対立をもたらし続けてしまいます。(そんな話は聖書の中には出てこない。一度だけ非ユダヤ人が居ると云うことで食事の席を立ったペテロをパウロが非難したと云う話があるだけ。)

こうした経緯を背景にしながらキリスト教教会は5つの勢力にわかれていきます。
①ローマ教会②コンスタンティノープル教会③アンティオキア教会④イェルサレム教会⑤アレクサンドリア教会です。
後者3教会は、東方イスラム教圏国家の台頭で小さな組織に終始した。組織として育ったのは、アドリア海を挟んで西側の①ローマ教会と、東側の②コンスタンティノープル教会の二つでした。

つまり西ローマ帝国の動乱を逃れるために①ローマ教会が東ローマ帝国へ遁走した時、そこにはコンペチターとして②コンスタンティノープル教会が有った、と言う訳です。
この二者の確執は、かなり早い時期から生まれています。そしてこの二者の確執が最終的に、ローマ=カトリック(スタンダード)と正教会(オーソドックス)というキリスト教の分裂に繋がっていくわけです。

ところで。こうした経緯を簡単に追っただけで見えてくるものがあります。それはイエスが布教したアラムの地は片田舎・辺境の地だったのに、パウロ/ペテロが布教活動をした場所は都会だった・・ということです。もちろんビジネスとして「パッケージ化された生きがいの販売・宗教の販売」を考えるならば、田舎より都会の方がマーケットは大きい。売りやすい。したがって宗教の販売先として。主たるマーケットとして都市が選ばれたのは当然だったのかもしれません。

西暦476年の西ローマ帝国滅亡/ゲルマン人が次々と沢山の国を勝手に作り始める。身の危険を感じたローマ=カトリックがアドリア海の向こう東ローマ帝国へ遁走してしまうと、置き去りにされた人々の心は大きく揺らぎます。
「キリストは救世主なんだろ。救世主が蛮族に、こんなにいとも簡単に席巻されてしまうのか?西ローマ帝国の国教でなかったのか?国が滅びればさっさと自分たちだけ逃げ出してしまう程度の教団だったのか?」と。
こうしたローマ=カトリックへの猜疑心・不信を背景にして529年、ローマ南方のモンテ・カッシーノの山中に、新しい信仰団体とも云える修道院を創設しました。「西欧修道制の父」と云われるベネディクトゥスの登場です。
ベネディクト派の台頭です。

ベネディクトゥスは、西ローマ帝国滅亡直後に生まれています(480~550)。そしてその動乱の中で育ちました。彼が既存の都市型キリスト教に疑問を持ち、違う郊外型のキリスト起用を模索し始める経緯はとても面白い。興味深いのです。彼は"教会"ではなく"修道院"という形式のグループを、都市ではなく郊外に組成した。これはとてもユニークな発想でした。云ってみれば「ロードサイド・ショップ/郊外型店舗(修道院)」でして、地方の顧客を対象にキリスト教と云う「生きがい商品」の販売をし始めたわけです。

このベネディクトゥスが提唱する修道院はその性格上、それまでの世間から孤立・隠者生活を送る、あるいは文献の研究を主たる目的とする修道院とは、一線を画するものでした。彼らの「何んでもない道の途中に修道院を建て、そこに人々が集まれる環境を作り、深く民と関わりながらキリスト教を広める」という方法は、民から熱狂的に受け入れられました。キリスト教が生活に密着した近しい"心の支え"になったのです。こうして各地に。とくにアルプスの北、ガリアの地に。修道院が沢山設けられるようになっていくのです。

ところがこうした「地方型宗教」へ切り替わることで、キリスト教は変質していきます。
もともとはユダヤ教のいちバリエーションですから、当然偶像崇拝は認めない。しかしガリアの地の人々は具体的に手を合わせて祈る対象物を求めた。ガリアの地に広がったキリスト教教会・修道院は、建物の中を偶像で埋め尽くすようになります。
そして強い地母神信仰。これは何処の民族にも有る信仰対象です。キリスト教は、どちらかと云うと男性崇拝・男性中心の宗教だったのですが、女性であるマリアにスポットを当てるようになるのは、間違いなく古くから有る土俗地母神信仰を取り込んでいったためです。
こうしてマリア信仰がはじまりました。
つまり地方へ販路が拡充していった西暦500年以降の1000年間は、人々が受け入れやすいものへ教義を柔軟に変えていった歴史でもあるのです。こうしてキリスト教は、ペテロの云うユダヤ教内の新興宗教でもなく、パウロの考えたミトラ教の別バリエーションでもない、独自の形へ整合化されていきます。

一神教であるがためにキリスト教の本質は攻撃的です。根底にあるのは「怒り」です。怒りだからこそ因果応報としての「地獄」を必要とする。ブッディズムの「諦め」を底に置く宗教とは全く別物です。
「怒り」は、つよい「愛」をもたらし
「諦め」は、深い「慈愛」をもたらす
キリスト教とブッディズムの「愛の形」の違いは、その足を置いている基盤の違いだと云えましょう。

しかしなぜ、それほど中世キリスト教は柔軟性を持てたのでしょうか。教義の部分的変更が柔軟に出来たのでしょうか?
いくつも理由はあると思いますが、僕は主たる理由はキリスト教が「壮大な伝言ゲーム」だったからではないか。そう思っています。
キリストが実存したという客観的・考古学的証拠は相変わらず有りません。2000年、バチカンが追いかけてもなお見つからない。あるのは「彼はこう言ってた。彼はこう言ってたと、彼は言ってた」という伝言ゲームだけです。新約聖書は、その伝言ゲームだけで出来ています。たしかに精緻に作られているが、客観的反証となる資料は皆無のままです。

云ってみればですね。譬えるならば・・キリスト教は「愛と正義のセーラー美少女戦士セーラームーン」と同じです。とてもよく似てる。
最初は麻布十番の裏路地で、世界平和のために侵略者と戦っていた彼女たちと同じです。しまいにインフレを起こして、舞台が世界へ変わっていく経緯も良く似てる。
しかし、だからと云って「愛と正義」を守るために「おしおきよ!」と叫ぶ、彼女たちが無意味なわけではない。とても大事なことです。
もちろん、彼女たちが「おしおき」つきで叫ぶ「愛」がなにものか。「正義」がなにものかは、きわめて正鵠に考えるべき問題ですが、簡単なモデリング上では「愛も正義も」曇るべきものであることは間違いありません。
セーラームーンが架空の人物でも。イエス・キリストが架空の人物でも・・です。
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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました