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東京散歩・本郷小石川#13/武家台頭前夜#02

「周礼」天官大宰職に「群臣ヲ馭シ、万民ヲ馭ス」とある。「馭」とは統治を指す。この言い回しに、僕ははっきりと遊牧騎馬民族の血を感じてしまう。

古来、中原(揚子江と黄河の間・漢」に王朝を立ち上げた人々の戦闘様式は歩兵戦だった。歩兵の員数と訓練が戦いの趨勢を決めた。しかし北方の匈奴(騎馬民族)が洗練化されていくと、漢民族は屡々その戦いに負けるようになった。・・それを大きく変えたのが漢の武帝である。武帝は自軍の中に匈奴(騎馬民族)と同じような騎馬軍団を組成した。これが漢に中原の軍事的統一をもたらしたのである。「漢書・礼楽志 」に武帝「宛馬(大宛国の天馬)を獲て作った郊祀歌」という一文がある。

天馬徠兮 從西極(天馬来たりぬ 西極より)
經萬里兮 歸有徳(万里を経て 有徳に帰せり)
承靈威兮 降外(霊威をうけて 外国をくだす)
渉流沙兮 四夷服(流沙を渉りて 四夷は服しぬ)
ここで武帝が謡う"從西極"はシルクロードではない。もっと北の現在は「ステップルート」と言われている中央ユーラシア北部草原地帯を通るルートのことだ。北部草原地帯は、古くから騎馬遊牧民が生きたところだ。
彼らによって伝えられた「馬」によって得られる「馭」が如何ほど高機能であるか・・武帝は知り尽くしていたと言えよう。

蛇足だが・・松田寿男は「絹馬交易」という言葉を使う。しかし実態はもっと上が交易のルートだったのかもしれない。

・・その唐を盲愛していた天武天皇は、光武帝の戦法を取り入れ「壬申の乱」において甲斐の騎馬軍団を徴用した。そして日本統一王朝を自らのものにした。白村江の戦いから半世紀後だ。その頃には国内にも騎馬軍団が組成されていたのである。

天武天皇は、統治はすべて唐を真似た。「律令制」は天武天皇によって導入されたものである。"律"は禁制法規、"令"は教令法規。天武天皇は漢の律令を翻訳し、それをそのまま採用した。その律令の中に"牧"についての条文がある。天武天皇は、駅伝と軍馬養成がきわめて重要なキーワードだと考えていたに違いない。

ちなみに「天皇」なる称号は、道教に染まっていた光武帝が最高神である天皇大帝(北辰/北極星)と自らを同一化させ自称していたものである。なので自らも「天皇」を名乗った。なので諡号は天渟中原瀛真人天皇。天武天皇は、奈良時代に淡海三船によって撰進されたものだ。

漢代のあと、中原は胡人が跋扈する時代になる。「五胡十六国」である。その胡人の多くは中国西北にいた騎馬民族(史記の列伝第50に詳しい)だった。西暦5世紀ごろ、その胡人のひとつ「鮮卑(托跋氏)」が北魏(386~536)を建国した。同時代を記した「中国二十五史」に、鮮卑代を記した"魏書"(三国志の魏では無い)が有る。異民族の歴史について書かれた最初の史書だ。同書「列伝第29・源賀伝」に「皇帝の同族に"源氏"の姓を公許す」という一文がある。つまり同族の親衛隊を組成したのだ。これは出自を考えてみれば間違いなく騎馬集団である。
嵯峨天皇が定めた「源氏制度」の"源氏"なる呼称は、これに倣っている。
もしかすると、何らかの形で鮮卑族の軍組成の方法も伝わっていたかもしれない。そう考えたい誘惑に駆られる。

さて「八幡」だが、本邦では室町時代に書かれた「八幡宇佐宮御託宣集・6巻」に「古吾ハ震旦国 靈神 ナリシガ、今ハ 日域鎮 守ノ大神ナルゾ」ある。「唐太宗李衛公 問対」に「破陣楽舞ノ八幡」とあので。これを指すに違いない。華国側で軍神としての「八幡」について触れた一文だ。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました