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ジャンゴ・ラインハルト#05/大量生産の嵐


第一次世界大戦によって欧州各国は疲弊した。一方直接的な参与が無かったアメリカは、正に漁夫の利を得て我が世の春を謳った。その眩しい限りの輝きを体現していたのが、純アメリカ製のダンス音楽だったのかもしれない。


アメリカ製音楽には、特筆すべき特徴があった。
それは「分業化」「量産化」されていることである。「製造」は殆どマンハッタンの20丁目ブロードウェイ沿い「ティンパンアレー通り」でされた。多くの音楽出版会社がこの地域に集まっていたのだ。彼らは「音楽製造」を、作曲家/作詞家/編曲者に分業した。時には作曲家さへ主旋律を書く者と形式を整える者を分業化した。

そのために原則的なデファクト・スタンダードがあり、その類型が守られた。すなわち楽曲は原則的にAABA形式であること。主旋律は長くとも8小節であること。テンポは一定で、踊れる速さであること。3拍子か4拍子を最後まで守り、変拍子を含まないこと。メロディはコードネームを背景に紡がれること。コード進行は原則的にⅡ-Ⅴ-Ⅰであること・・である。こうした形式は以降のポピュラー音楽の方向性を完全に決めた。

「ティンパンアレー通り」で作られた無数の楽曲は、ワンシートの楽譜として販売され、レコード化され、ミュージカルとして劇場にかけられ、そしてダンスホールで演奏された。

南部黒人たちが見よう見真似で始めたマーチングバンドと、地方巡業ミンストレルショーの複合物であるJAZZという音楽が、急速な発展と変質を遂げたのは、ユダヤ人がNYCブロードウェイの喧騒な通りで、恰もフォードが始めた自動車作りと同じように、ベルトコンベアの上で素材となる楽曲を大量生産をしたからである。

この大量生産で作られた音楽が、アメリカから世界へ溢れ出た最初の「文化」だったと云っても過言ではあるまい。産業革命が産んだ「統一規格による大量生産」が、ここでも方法として確立したのだ。

1920年代に入ると、スイング・ミュージックは欧州各地にあったダンス音楽を吹き飛ばし、怒涛のごとく欧州を席巻した。欧州各地のダンスホール/酒場で演奏される音楽は、アメリカ製(大量生産)音楽になってしまったのである。

余談だが・・僕はその過程に日本のラーメン文化の台頭を折り重ねてしまう。ご当地ラーメンとやらが、地方料理の存在を霞んだものにしていく過程だ(無駄話容赦)。


こうした激流とも云える音楽の潮流に晒されたのがジャンゴ・ラインハルトである。

彼がステファングラッペリと弟ジャンと共にQuintette du Hot Club de Franceを結成したのは1923年。彼が23才のときだ。

このジャンゴのクインテット(五重奏団)は、弦楽だけで組成されていた。ジャンゴとステファングラッペリがソリストである。ドラムがいない。管楽器もいないグループである。ベースとサイドギターがきちっとリズムを刻み、そこにジャンゴのギターとステファングラッペリのバイォリンの紡ぐメロディが絡む。

まったくアメリカには無い音楽スタイルだが、奏でる音楽はスイング・ジャズそのものだった。アメリカ・ティンパンアレー製の曲を演奏した。そして時折ジャンゴのオリジナルも演奏したが、その形式は全くティンパンアレーそのままだった。


このジャンゴのクインテット(五重奏団)だが、アメリカの癌団には有り得ない構成である。しかし欧州では/パリでは、聞きなれた/見慣れたバンド構成だった。昔から結婚式やパーティの席に呼ばれる音楽家たち(多くはジプシー)は同じような構成が多い。云ってみれば、いつもの聞きなれたバンド編成で、当時最新のお洒落なスィング・ジャズを演奏して見せたわけだから、受けないわけがない。ジャンゴの癌団はたちまち引っ張りだこの人気バンドになって行った

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました