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機械の花嫁への懸想#03

子供のころから僕は何となく石川島で働くんだろうなと思ってた。僕が生活していた佃島の隣にある石川島播磨重工は、子供の僕にとって不可侵な技術の神殿に見えたからだ。神官になるつもりでいた。だから学校も高校は石川島の高専に行くつもりでいた。佃の伯父は僕がそれを言うと、いつも強く反対した。「だめだ。もし技術に生きるんだったら、大学を出てないと先は頭打ちになるぞ。大学は行け」と。でもウチは決して豊かじゃなかったからね、そんなお金のかかることは母に言い出せないと一人合点をしてたんだ。
ところで、植松さんに連れられて東海大学の15号館だったか・・に出かけたとき。僕はそこにある本当に動く"機械の花嫁"に恋をした。
NEAC-2203だったと思う。正確には憶えていない。日電の2200シリーズの何れかだったと思う。
植松さん連れられた少年はラボの人たちに「おやおや、いらっしゃい」と歓迎された。
「この子がね、計算機を自作してるんですよ」植松さんが言った。「おおお!それはすごい。」みんなが驚いてくれた。僕は猛烈に恥ずかしかった。
植松さんは、動いているNEAC-2203について、こと細かに説明してくれた。僕は夢中になってその話を聞いた。でもお話の1/4も理解できなかった。
しかし"この子"が特有の言葉を持っており、その言葉で話をしていることは理解した。
作る・・ことが終われば、次は"この子"の言葉に向かう・・んだ。僕は鳥肌が立った。
高校は迷わず東海大の付属にした。"原子科"なるものを選んだ。学生は12人しかいなかった。・・学校に入ると、僕は計算機そのものを作ることより「言葉」に傾倒した。
具体的にはアッセンブラだけど、マシンのないところで独学するアッセンブラは、ピアノがないのに立ち向かうツェルニーに似ている。猛烈に難易が高い。
それでも"実際的計算可能性"という課題に立ち向かったことは、以降の僕のモノの考え方を方向づけたと思う。だからCOBOLではなくFORTRANに進んだのは当然と言えば当然だったのかもしれない。
そして高校後半にオブジェクト指向に出会った。これは衝撃的だった。厳密であろうとしながら大きな問題に立ち向かうとき、どうしても越えられない"時間単位でこなせる作業量"という壁を、オブジェクト指向を取り入れることで、いとも簡単に越えられるのだ。僕はSmalltalkにハマった。
すべて・・ピアノを持たないピアニストの所作だ(^o^)
自宅の狭い学習机の上で、紙と鉛筆で呻吟しているその頃、時代は猛烈な勢いで進んでいた。wwwという概念が普及した。http://というコマンドに僕は胸ときめいた。いつか、つかってやる!と・・
そしてTCP/IPが出てきた。世界中のコンピュータがつながる時代になったのだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました