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本所話欄外書き込み/ナメクジと白石さんチ#03

父はマリーンだった。
朝鮮半島での動きが風雲を告げるころ、勤務地が丸の内から横須賀に移った。母は僕を抱いて一緒に横須賀へ越した。
そして父が逝った。母は一人ぼっちになった。27歳である。
母は佃へ帰らなかった。しかし米軍の寡婦に対する支援にも頼らなかった。頼れば米国へ、逢ったこともない父の実家へ行かされる。。そう思ったらしい。母は、独りで生きる!と決心した。幸い父の部下が、陰に日向に母を助けてくれたようだ。しかし幼子(僕)を抱えて独りで生きるのは至難だ。僕は叔母(9番目)の処へ預けられた。叔母は大船にいた。松竹の人へ嫁いでいたのだ。

・・その頃の僕の一番古い記憶は、満開の桜の木とその桜吹雪だ。
僕は無数に舞い散る桜の花びらの中にいる。 路面も空も薄紅色の嵐に塗れて、光が溶け、世界はただ一色に塗りたくられている。その荒々しく渦巻く花びらが不安で、僕は一緒にいる大人の手をしっかりと握った。隣にいるのは母の妹・叔母夫婦だったと思う。記憶はそこで途切れる。
その桜吹雪の乱舞を、僕は何度も夢の中で見た。 桜とその薄紅色は、いつでも訳もなく僕の行く手を阻む力の象徴だった。
僕はずっとこれが大船幼稚園に入った時の記憶だろうと思っていた。入園式のあと、何かの理由で叔母夫婦と撮影所の中へ出かけたのだろうと。
大船撮影所は、正面玄関を入ってすぐのところに桜並木が有る。だから、きっとこの思い出の場所は、そこだと思っていた。今はもう撮影所そのものが無くなっちゃったから、確認しようもないが・・そういえば、あの桜の並木はまだ残っているのだろうか。

父が亡くなった後、そのまま呆然と横須賀に残る母を心配して、叔母が僕を預かった。だから僕の一番古い記憶は、すべて大船のものだ。そして大半が撮影所内でのものだ。
叔父は、大船撮影所で働いていた。家は撮影所の並びに有った。いま思うと、撮影所で働いている人たちは、みんなその並びに住んでいたように思う。年上の遊び仲間のウチも、みんな撮影所の人で、僕らはよく撮影所の中に潜り込んで遊んだ。もちろん悪さをすると怒られる。でも広大な広場は、撮影所で働いている人の子らが駆けまわっていても、景色の一部のようなもので、誰も気にしなかったのだ。それどころか、駆けまわっていると、仕事中の小父さんたちに声かけられて、休憩の時に出るお茶請けのおこぼれをもらったりもした。

ところが・・老人ホームへ入った母と昔話をしたとき、大船の叔母の話になった。そのとき母が、僕は大船幼稚園の入園式には出ていないと言い出した。僕はびっくりした。そして同時に、しばらく忘れていたあの桜吹雪を鮮々と思い出した。

横須賀の母から僕を預かった叔母夫婦は、僕が二人に懐いたのを見て、僕を養子にしたいと言ったそうだ。
「姉さんには、育てられないわよ。私たちの方が、この子には良い親になるわ。」昂然とそう言ったという。 母は憤然とし、入園の日、僕を強引に横須賀へ連れて帰った。 そのとき、僕は母に手を引かれながら「幼稚園行きたい・行きたい」と泣いたそうだ。

あの日、僕の手を引いていたのは・・・叔母夫婦ではなく、母だったのだ。 「でもね。結局無理でね。今度は私が頭下げて、お前をあの二人に預かってもらったんだよ。養子にしたいという話は、もうしないという約束でね。」 幼い僕にとって、母はたまに遊びに来る"母という名のおばさん"だった。僕にとって家庭は大船だった。だから母と二人で暮らすようになっても、春休みも夏休みも、僕は必ず叔母夫婦の所へ行っていた。母はそのことを何も言わなかったが、忸怩たる部分は有ったようだ。
「帰りに、お前が"ママ、また来てねぇ"と手を振ると、ほんとに辛くて辛くて仕方なかったんだよ。だから頑張って二人で暮らそうと思ったんだよ。」母は遠くを見るように言った。

そう・・頑張った。頑張ったから、その皺寄せが有った。無理と歪みを一杯抱え込んだ。そしてその皺寄せは、僕にも来た。「お前だって背負わなけりゃいけないんだよ」という気持ちが母には有った。言わなくても端々にそれが出ていた。僕はそんな母が嫌だった。「そんなのは、あんたの都合だし、あんたの勝手だろ」小学校高学年から、高校三年の夏休みに家を出るまで、僕はずっとそう思っていたのだ。
「でもね・・」母が続けた。「わたしはね、一緒に生きてくれる自分の子が欲しかったんだよ。お前に生まれてきて欲しくて・欲しくて仕方なかったんだよ。だから、お前のお父さんを失って、そのうえお前までを失なうなんて、絶対に嫌だったんだよ。お前には、そのことで辛い思いをいっぱいさせたけどね・・」老いた母が微笑みながら言った。
「・・大人になってから、ロクに家にいないセガレだったけどな。」
「それでもいいんだ。それでもいいんだ。この空の下で、どっかでお前が元気だってことが判ってりゃそれでいいんだよ。」母は笑った。
八十有余年。怒涛の中を生きた母がそう言った。母は今この日のために僕を生んだのかもしれない。
僕がその時、思い浮かべた桜吹雪は・・長い間、見続けた"不安"の象徴ではなかった。次代への再生を喜びながら散る花だった。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました