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黒海の記憶#33/ローマが対峙した民族と国家という問題

アッリアノスが退官した半世紀後、アッシリア出身の風刺詩家ルキアノスが黒海周辺について以下のようなエピソードを書いている。
50代まで旅のソフィストだったルキアノスの著書には、さまざまなローマ外周の人々が登場するが黒海の話は少ない。
相変わらず同時代を語る一次資料は僅かだ。

フラゴニアの街アボノテイコスの神殿でアスクレピオスの出現を知らせる数枚の銅版が発見された。その銅板に従って人々は新しい神殿を用意した。その工事中、今度は土中から卵を発見した。そしてその卵から蛇が出た。人々はこれをアスクレピオスの化身として崇めた。神殿はこの蛇のものになった。
蛇は数日のうちにグリュコンGlyconという人面の大蛇となり、その預託の仲介者としてアレクサンドロスという占い師が立った。
グリュコンの神殿は巡礼者によって大いに栄えた。大量の巫女を傅かせグリュコンのための少年合唱隊もあった。
グリュコンは饒舌な大蛇だった。納めるお金次第では、グリュコン自身がギリシャ語で話すことも有った。占い師アレクサンドロスが秀逸だったのは、神殿に奥深く居るグリュコンと、その預託を聞く人々の入る部屋の間に伝声管を作ったことである。人々はグリュコンの姿が見えずとも大蛇の預託がきけたのだ。
占い師アレクサンドロスは長生きした。そのおかげで預託商売も長く続き、巡礼地としてアボノテイコスは大いに栄えた。

ルキアノスは、その顛末をこう書く。「実際のところ、我々はパフラゴニアとポントスの人びとを許さなければならない。彼らは愚か者で教育を受けていない連中だから」と。
・・もしその「しゃべる蛇グリュコンを祀らう神殿」がローマに近い属州にあったら・・どうだったろうか?ローマはそんなペテン宗教の栄華を見逃しただろうか?ルキアノスは「彼らは愚か者で教育を受けていない連中だから」と揶揄するだけで済ましただろうか?

ルキアノスの残した書物には、こうした「非ローマ」と「ローマらしさ」の対比が随所にある。彼自身がアッシリアの出身であり。その方言を矯正するのにとても苦労した人物だ。・・つまりローマは・・矯正しなければ/自ら進んで「ローマらしく」ならなければ、受け入れようとしない偏狭さをもつ文明だった。したがってローマは支配地には必ず首都を「小ローマ」として組成しなおした。軍もすべて同じ服装と武器を持ち、同じ言葉で指令を受けた。市民もローマ風のロープを身に着けたのだ。
しかし、最初の千年紀に入るころから、それが難しくなっていた。ローマ市民から、ローマ人が激減したからだ。
もともとはラテン人とエトルリア人の混成だったはずのローマ人は、領土を拡大するとともに無数の民族を受け入れることで「ローマ人らしい」というレギュレーションを維持できなくなっていたのだ。

前述アッリアノスもアナトリア半島の出身であり、大半の歴代元老院にも、この頃には既に生粋のローマっ子を探すのが至難になっていたのだ。ローマには「ローマ市民」は居たが「ローマ民族」は稀有な存在になっていた・・というわけだ。
ローマは「民族と国家」という、問題にぶつかった最初の国だった・・と言えよう。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました