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ご府外東京散歩#08/東京の誕生

幕末、全国を覆った不作と飢饉は少なからず江戸周辺郡部にも大きな影響を与えたが、水田地と他作物の植え付け面積の比率が圧倒的に後者へ偏っていたために、被害はさほど深刻な状況にならなかった。

たしかに、江戸市中/周辺都市で、町民たちによる「米よこせ」の暴動は幾つか発生したが、郡部農家はその騒乱にはほとんど巻き込まれなかった。それは周辺農家が作る作物の多くが2毛作/3毛作あるいは4毛作可能なものだったこと、すぐ傍に江戸という巨大なマーケットをもっていたこと、そして貨幣による蓄財が可能だったからであろう。
そして、薩長革命軍による侵攻が始まる。
いとも簡単に政権を放り出した徳川慶喜だったが、これもそれほど深刻な政治的混乱を起こさずに、支配体制はギクシャクする部分はありながらも新政府へ引き継がれた。

さて、この維新革命政府を構成していた薩長武士/公家集団だが・・旧支配者である徳川家を追い立てた後、なんとそのまま徳川家のものだった江戸へ住み着いてしまったのである。"帰郷しよう"とはしなかった。ましてや遷都もしなかった。
大久保などによってシュミレーションは行われたが、革命部隊はそのまま落城させた地へ根付くという判断をしたのである。・・これを不満とした勢力もあったが、現実的に・・例えば京大阪へ遷都した場合、旧来のその地の利権と真っ向からぶつかるのは目に見えている。ましてや長州藩内/熊本藩内への遷都は論外である。消去法からしても江戸からの遷都はありえなかった、と見るべきなんだろうが、それにしても地方から勃興した革命集団がそのまま、自分の出身地を捨てて旧支配者の地へ全員が住み込んでしまうというのは、きわめて特異なケースではないか?僕はそう思ってしまう。むしろ自分たちの出身地へ戻れない、何かオイエの事情があったのか?そう穿った解釈をしたくなるのは僕だけだろうか?
・・こうした勤皇の志士による維新革命政府が流れ込んだ江戸だが、大半を占めていた武家屋敷はすでに何処も蛻の殻になっており、接収はいとも簡単に行えたことが幸いした。江戸は大した抵抗もなくいとも簡単に彼ら手に落ちていったのである。

その維新革命政府が最初に目論んだのは、手に入れた江戸の再編成だった。
同時に名称の変更である。江戸は東京都と改称された。
そして"東京なるもの"を、革命政府は徳川幕府が定めていた「ご朱引き」をベースにして再構築していった。基本的な区分は、行政/商業地である「都市部」と農生産地である「山落地」の2区分とした。
明治2年3月、旧ご朱引き内を1区1万人を原則として、江戸982町を50区に分けた。そして周辺郡部90町89村については5区に分けた。
各区とも旧来の世襲制の名主を廃止し、中央政府から配属/指名される中年寄/添年寄の管理下に置かれた。この変革によって最も大きく変わったのは、国家管理に移った旧各藩武家屋敷である。大半が空き家になっていたこれらは細分化され、民間へ払い下げると共に、一部を村落/一部を都市部へと組み込まれていった。その折、都市部の武家屋敷の多くは国有とされ、新政府の機関/軍部に充てがわれ、一部は革命殊勲者たちの個人財産になっていった。

こうした「江戸の再編成」と共に行われたのは、住民の戸籍管理だった。明治政府は、従来社寺に任していた檀家を中心とする身分別戸籍から、居住区単位での戸籍管理への変更を図った。このとき、東京周辺区は長浜/小菅県を吸収し、これを荏原郡/多摩郡/豊島郡/足立郡/葛飾郡とした。
紆余曲折はありながらも、10年ほどかけて「都市部」「山落地」という2区分された東京が誕生していく。その大きさは徳川幕府が決めたご朱引き「江戸」を内包しながらも、数倍の大きさをもつ複合型メガポリスに変身したわけである。この領域は、現在に至るまでそれほど大きな変更はないままになっている。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました