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3月10日の記憶/欄外・1月27日銀座泰明小学校#01

昭和20年1月27日。冬の曇天の空に、見えないままの朝日が昇る頃、朝靄の中を先生たちが登校し始めます。子供たちが登校する前から、泰明小学校は少しずつ目覚め始めていく。外堀川を渡って登校する先生。尾張町の交差点からみゆき通りを上がってくる先生。色々ですが、途中で顔を合わせると、先生らは明るく「おはようございます」と声をかけながら、一緒に登校してきます。その日、早朝の気温は零度近く、寒い朝でした。
正面玄関から入って職員室へ入ると、窓の向こうに、未だ子供たちが登校する前の校庭が見えます。そこは子供たちが登校するまで、雀たちの遊び場です。雀たちは隣の数寄屋橋公園を塒にしている。丸々と膨れて、まさに寒雀そのものですが、けっして餌が豊富だったからではありません。人々が困窮していれば、街の生き物たちも食べるものを得るのが難しい。丸々と膨れていても、本当は痩せ雀だったのです。その雀たちが、啄むものを求めて、校庭や校舎に沿って植えられている花壇の中を忙しく動いていました。
泰明小学校は外堀川に面して、数寄屋橋の傍らにあります。冬はその外堀川の川面を冷たい風が吹き抜ける。でも校舎が壁となって、校庭にその風が舞うことはありません。子供たちも、そして朝の雀たちも、優しく校舎に包まれるようにして守られていたのです。

前年の11月から始まった空襲を避けて、子供たちの大半は地方へ疎開していました。それでも、お正月だけは自分の家で過ごそうと銀座へ戻った子供たちもいて、疎開しなかった40人ほどの子供たちと混ざって、しばらくぶりに1月の泰明は、賑やかな日々が続いていました。もちろん空襲は正月も続いていた。警報が鳴ると校庭で遊んでいた子供たちは、急いで校舎へ逃げ込みます。堅牢な校舎はとても強い味方だったのです。
それでも1月が半ば過ぎるころには、夫々子供たちは疎開先に戻って、泰明小学校の校舎はまた戦時体制の静かな微睡みに戻っていました。でも機能停止していたわけではない。疎開しなかった40人ほどの子供たちのために泰明小学校は、学びの舎として動いていたのです。

その日、当直は中井先生・大貫先生・野島先生の三人でした。当直室は職員室の隣にありました。その真ん中に火鉢を置いて、当直の夜はそれを唯一の温もりにしてた。薪も炭もコークスも、とうに配給は切れていて、教室を温める手段はもう何もなくなっていました。その火鉢の傍、朝一番に登校してきた校長先生が座りました。当直だった中井先生がお茶を出しました。
「お早うございます。」
「お早う。寒いね。当直はどうでした。」校長先生が言いました。
「夜中に空襲警報が鳴って、皆で地下室に逃げ込みましたよ。」
「大変だったね。」
「ビルの屋上の高射砲の迎撃の音が凄くて。結局、終わった後も全然寝付かれませんでした。」
「お疲れ様でした。」校長先生が言うと、中井先生は微笑みながら職員室の方へ行きました。」
中井先生が言った地下室は、玄関のすぐそばにある用務員室の横、地下のボイラー室のことです。空襲警報が鳴ると、すぐにそこへ避難するように決められていました。

校長先生は、そのまま出がらしのお茶を飲みながら、机の上に置いてあった昨日の新聞を読み始めました。その新聞に、こんな広告が出ていた。
 《ルソン島=米奴撃墜の天王山 急ぐ補給=増産 飛行機と弾薬
  船がいる 船員がいる 
  父兄と教導者は海上輸送拡充の緊迫を知れ
  満14歳以上は直ちに船上特攻隊員たれ
  手続き待遇等各地港湾都市所在の本会支部出張所へ問合わせ
  東京都丸の内一ノ一帝国生命館 船舶運会営船員局

「船上特攻員・・ねぇ」校長先生は長い溜息を洩らしました。
この広告は連日各紙に掲載されていました。勝った勝ったを連呼する大本営発表でしたが、その勝った場所がどんどんと日本本土に近づいていること。ついに空襲が始まったこと。そして、噂として流れている南シナ海での凄惨な負け戦のこと。この戦争の行方を予感しない人はいませんでした。
「しかし、14歳の少年を集めて、なにをさせようというんだ・・」校長先生は呻き声を洩らしました。そして無意識に校庭を見ました。子供たちが登校し始めている。
「あの子たち。六年生。あの子たちを二年後には修羅の場へ狩り出すつもりなのか・・」そう思うと、猛烈な徒労感に襲われそうになります。いけない。校長先生は心を無理やり奮い立たせました。ならば・・せめて・・その日まで・・充実した心豊かな楽しい日々を与えてあげたい。校長先生は、唇を噛みながらそう思いました。

その日の授業は午前中だけでした。土曜日でしたからね。子供たちは帰りに給食のコッペパンを配られて嬉々と猪俣先生に引率されながら下校していきました。先生たちがそれを見送った。重苦しい雲が相変わらず空を覆っていました。
職員室に戻った先生たちは、仕事を始めました。その一つは、卒業アルバムのために撮られたガラス乾板の整理でした。ガラス乾板は、校庭を向いている窓際の棚の上に何枚かずつ重ねられてズラリと並べられていました。どれを使って、どれを使わないか。先生たちはその選定を、色々意見を交わしながら行っていました。しばらくして、橋本先生が言いました。
「さて。僕はちょっと失礼して近藤書店に行ってきます。」
「いってらっしゃい」他の先生方は手を休めないまま言いました。

その日は、午後から女性の先生が3名登校してきました。銀座三丁目にあった銭湯「大黒湯」に行くためでした。銭湯は、前の年から男女交代で時間制になっていた。その時間は、たいてい授業中だった先生たちは、とても困っていたのです。大黒湯の主人は泰明の卒業生です。それでは営業時間前に女性の先生だけ利用できるようにしましょうと言ってくれて、その厚意に甘えるために、先生たちが集まったのでした。
当直の二人の先生を残して、4人の先生は着替えと洗面道具を持って、午後二時近くに学校を出ました。そして数寄屋橋の交差点に差し掛かったころ、不気味な空襲警報が鳴った。先生たちは空を見上げました。「戻りましょ」中井先生が言った。4人は急いで学校へ戻りました。
そのころ、近藤書店にいた橋本先生もその警報を聞いた。橋下先生も急いで街へ飛び出しました。

近藤書店は、西五番街通りと晴海通りの角にあります。ここも泰明の卒業生です。銀座は小商いの街でしたから、大抵の店は2階から上は自宅になって、みんなそこに住んでいたのです。
橋本先生は数寄屋橋の交差点を駆け抜け、公園から学校のグランドを抜けて、そのまま一気に屋上まで駆け昇りました。先生は警報発令時の警戒係でした。橋本先生が屋上に着いた時、空襲警報はまだ鳴り響いていた。でも目をこらして見る空は、どんよりと雲に覆われているだけで、飛行機らしき姿は何処にも見えませんでした。そのうち悲鳴のような警報は鳴りやんだ。
「上空を通過していっただけなのか・・」橋本先生は思いました。そして校庭を見下ろした。校長先生が、校庭へ出て来て空を眺めているのが見えました。校長は、しばらく空を見つめたあと、玄関のほうへ歩いていました。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました