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聖エミリオの奇跡/サンテミリオン村歩き#18

https://www.youtube.com/watch?v=h15uFdZmTZo&t=34s

ブルネ門から村へ向かってポルトブルネ通りを歩いた。雨は続いたまま。人通りはない。大きな雨粒がブルネ門の石壁を叩いていた。
「車の通行も、ほとんどないのね」嫁さんが言った。
「よほどのことがない限り、車は村の外環道を使うんだろうな」
ポルト門の向うは五差路なっていて、村の交通手段として機能している・・という感じだった。
僕らは撮影をした後、そのままランチをしたMaison de la Cadèneのほうへ戻った。そしてレストランの手前、二股になっているリベルテ通りを左に入った。ここはグアデ通りへの近道になる。そのままThe Wine Buff(2 Rue du Marché, 33330 Saint-Émilion)があるマルシェ通りを下った。
「この辺りから村の下町になるわけね。きっと昔からそうだったのかもしれないわね」
少し歩くと、観光客の姿を見るようになった。このあたりは彼らを相手の店が多い。雨でも人が歩いているのだろう。モノリス教会の前にあるオープンカフェの前を通ると、雨宿りする観光客が何組か席について食事をしているのが見えた。モノリス教会の入り口にも見学者たちの姿が見えた。

「モノリス教会は、ピエール・ド・カスティヨンPierre de Castillonという人が建立した。AD1100年頃だ。オーブテール子爵だった人だ。彼はサンテミリオンをサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼中継点にしたいと考えていたようだ」
「サンテミリオンって、それまではサンチャゴへの中継点ではなかったの?」
「ん。違った。パリからサンティアゴへ向かう巡礼ルートは、サントを通ってボルドーへ入り、トゥールへ進む道だ。巡礼者は、ボルドーへ入るのにサントからジロンド川添いのブライBlayeあるいはサン=タンドレ=ド=キュザックSaint-André-de-Cubzacを通過するのが普通だった。そしてトゥールへ向かい、サン=ジャン=ピエ=ド=ポーSaint-Jean-Pied-de-Portへ進むというコースを辿った。サンテミリオンは、このルートから東へ40kmくらい離れているからな。ピエール・ド・カスティヨンが仕掛けるまでは完全に中継路から外れてた。地元の人の巡礼先だったけどね」
「地元の人の巡礼先って・・聖エミリオを慕った人々が訪ねていたの?」
「ん。聖エミリオがサンテミリオンに棲むようになったのは750年代からと云われている。亡くなったのはAD767年1月6日だから、20年近く彼は此処で暮らしていた」
「聖エミリオってサンテミリオンの人じゃなかったの?」
「巡礼者だった。ブルターニュの人だ。ヴァンヌVannes出身だったと云われてる。彼は、ヴァンヌ伯爵のパン職人として働いていたそうだ」
「神父じゃなかったの?」
「ん。違う。修道士だ」
「修道士と神父って、別のものなの?」
「その話は長くなるから別の時ににしよう」
「はいはい」
「彼はヴァンヌで、村の貧しい人々にために自分が焼いたパンを分け与えていたんだ」
「自分が焼いた・・と言ってもヴァンヌ伯爵のところで働いていたパン職人でしょ?ヴァンヌ伯爵のパンを配ってたわけ?」
「ん。伯爵は怒った。勝手に使われたわけだからな。そして彼を糾弾した。そのときエミリオは懐にパンを隠していた。彼は、それを貧しい人々を暖めるための木片だと偽った。伯爵は侮蔑し見せろ!と言った。懐を開けると・・パンは木片に変わっていた」
「マジック?」
「いや。奇跡だ・・この奇跡は瞬く間に人々に広まった」
「奇跡・・ねぇ」
「恥をかかされた伯爵は彼を憎んだ。その憎悪から逃れるために彼はサンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼へ出た。しかし途中で病に倒れ、ソージョンSaujonの聖ベネディクト会修道院へ逗留することになったんだ」
「ソージョンって、サンチャゴへの巡礼地だったの?」
「サントの近くだ。わりと近い。聖ベネディクト会修道院は巡礼者のための休息所として機能していたのかもしれない。聖エミリオは病を癒すために此処で暮らした。しかし病は思ったより重く、彼は巡礼を諦めて750年頃、修道院の東100kmほど離れたサンテミリオンの岩窟へ隠遁することにしたんだ」
「え~どうしてそんな離れたところへ移動したの?」
「ん。おそらく既にサンテミリオンの丘には聖ベネディクト会修道院のための隠棲所が有ったのかもしれない。修道士たちは、神と対峙するために独りで修道院から離れて洞窟生活する人がわりといたからね。
当時、サンテミリオンはアスカンバスAscumbasと呼ばれていた。アスカンバスは既にワインの生産地として知られていた。ソージョンの聖ベネディクト会修道院も此処に葡萄畑を持ちワインを醸造していたようだ。それとね、サンテミリオンの丘は石灰岩の砕石所だった。ここで採掘された石灰岩はボルドーへ持ち込まれて建物に使用されていた。その採掘跡の洞窟が無数にあった。その洞窟を、修道士たちは隠棲窟として使用したんだろうな。聖エミリオもそこに棲み付いたんだ。おそらく他にも修道士たちがいたと僕は思うな。衣食などは互助生活をとっていただろうね。
彼が亡くなったのはAD767年1月6日だった。このとき、サンテミリオンが幾つだったかは定かではない。一部の史料には、彼がアスカンバスのTroglodyteトログラドイトに入ったのはAD750年頃とあるから、老齢だったかもしれない。
修道院はエミリオンが亡くなると、彼の棲んでいたトログラドイトを礼拝所とした。今のモノリス教会がそれだ。アスカンバスは、いつのまにかサンテミリオンと呼ばれるようになったのは、この礼拝所を訪ねる人々が多かったからだろう」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました