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本所新古細工#06/関東文化圏

結局のところ鎌倉公方と室町幕府の対立は、変転しながらも100年間続いた。いわゆる戦国時代は、関東から始まっているのである。
未成熟だった武人による支配構造は、揺籃の中で姿を整えていった。・・武力と管理構造である。この二つに秀でた武家が次第に台頭し戦国時代は収斂に向かう。
先ずは信長である。続いて秀吉。そして家康・・と、聞きなれた名前が1500年代後半から、日本国のキーパーソンとして確立していった。
関東は、相変わらず戦国の御代を引きずって里見氏と北条氏が対立していた。第一次国府台合戦は1538年。
両者の戦いは裏切りと阿りに満ちて、両者を著しく疲弊させていく。

さて・・・
此処で一歩下がって、俯瞰的に関東を見てみよう。
広大な関東平野と奥羽地方は、近畿中央に生れた亡命華人勢力に匹敵するくらいの生産力と歴史を持っていた。充分日本を二分するくらいの力を持っていたのにもかかわらず、ナガスネヒコ/平清盛に継ぐ突出した指導者が出なかった。どうしてだろう?
易々と・・相当易々とヤマトタケルの東征にシンボライズされるような。近畿地方に生れた統一王朝に飲み込まれていくのだ。10世紀以降にこの地に見るべき人は・・現れなかった。

幻想の香取の海に佇み・・二つの大社(香取・鹿島)を彷徨しながら、思うのはそれだ。香取の海は、家康の治水政策によって完膚までに破壊されて。中央に隷属するだけの農耕地帯になっている。
里見八犬伝の主要キーパーソンである里見氏は北条氏と抗争を繰り返すばかりで、平清盛のような巨大なアイコンになることは一度もなかった。
豊かな生産力と、近畿中央とは違う独自の文化圏を持ちながら・・である。

それを強く思ったのは、千葉県山武郡横芝光町中台にある芝山古墳群を訪ねた時である。
芝山古墳群は、九十九里平野のメインステージである木戸川に寄り添って並ぶ古墳群だ。殿塚/姫塚の2基の前方後円墳を含み13基の円墳がある。周囲には大堤権現塚古墳/山室姫塚古墳/山田・宝馬古墳群/蕪木古墳群などがあり、このあたりがいかに豊かに栄えていたかが窺い知れる。6~7世紀ごろだろうか。
また併存して、鴻ノ巣貝塚/牛熊貝塚/中台貝塚/山武姥山貝塚などがあり、この地が縄文時代からヒトの地として栄えていたことが判る。というか・・関東は長い間、所謂縄文人と弥生人が時代を重ねて栄えた地域だ。これほどはっきり二つのグループが併存した地域は他にはないと云えよう。とても興味深い。

その千葉県芝山町の古墳から発掘された埴輪に、とても奇妙なものがある。添付した。
・・どうだろうか? 僕にはどうしても彼らが"倭人"には見えないのだ。
僕はこの実物を初めて見た時、予備知識も何もなかったので鳥肌が立った。
見たとおり髪形も帽子も風体も極めて西欧的である。我田引水かもしれないが長髪の巻き毛はユダヤ人にさえ見える。外国からの移植民を形とって作られたものだろう。そうとしか見えない。
僕が「こりゃ日本国の成立/初代統一王朝について真面目に考えてみなきゃいかんな」と思ったのは、この埴輪を見てからだった。・・これは余談。
http://www.town.shibayama.lg.jp/0000001838.html
極東の一番外れに、中央アジアあるいはもっと西の民族が、どう吹き溜まっていったのか?
彼らはどんな道を辿って、この島に辿りついたのか?なぜ、故郷を棄ててやってきたのか?
芝山古墳の埴輪を見ながら、痛烈にそのことを思った。

そのことは本所の地誌から相当かけ離れてしまうので、ここではしゃべり始めない。でもアタマのどこかに置いたままにしてほしいのは、家康が隅田川で2分した下総と武蔵の国の関係は極めて根深いのだ。妖僧天海(光秀説がある)が自らの住居として建てた浅草寺は香取の海/鹿島・香取両社と江戸城を繋ぐレイラインを分断するところに建っている。その霊的な意味は深い。ちなみに東武タワー(スカイツリーとか云うらしい)・・こいつも同じく、鹿島・香取両社と皇居を繋ぐレイラインを分断する地に、わざわざ空き地/適地だった精工舎跡からズレて楔のように建てられている。この意味も深い。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました