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葛西城東まぼろし散歩#20/江戸より古い下総07

「うままき(馬牧)って言葉、初めて聞いたわ。」と嫁さん。
「あなたの話って、知らない言葉が一杯でてくるけど、馬のための牧場を"馬牧"っていうのは、聞いたことなかったわ」
「日本書記の天智天皇の条に『干時近江国講武 又多置牧 而放馬』とある。668年だ。文武天皇の条(700)にも『令諸国定牧地放牛馬』とあるから言葉としては旧い。それに付随して牧馬。牧馬は飼われている馬を指す。で・・牧士は飼っている人々を指すんだよ。」
「まきばって、言葉は知ってる。でも、それ。牧馬じゃなくて牧場でしょ?」
「ん。チェコ民謡の『おお牧場はみどり♪』だな。中田羽後は英詩"Ah,lovely meadows,green and wide"のmeadowsを牧場と訳した。"牧場"は華語だ。魏書・食貨志の中に用例が有る。これも古い言葉だよ。日本に入ってきたのは早くて、訓ではMAKIBAを充てる例が多い」
「中国語は?」
「マンダリンはmùchǎngだな。唐語は判らない」
「唐?あ・・日本に中国語が入ってきた時代ね」
「ん。日本語の、いわゆる漢読みは唐語が多い。それと呉語。後代になると庸語もある漢読で何種類か言い方が別々にあるだろ?あれは、漢語読みだったり呉語読みだったりするんだ。でも訓読みは凡そひとつだ。例外はある」
「万葉かなというのは、日本語の発音を一字ずつ漢字に充てたものよね?」
「ん。原則・そうだ」
「でも"牧場"みたいに中国語で既にある言葉を、なぜわざわざ訓読みにしたの?」
「被支配者との意思疎通だろうな」
「被支配者?」
「古来から日本列島に住んでいた人々だ。彼らはヤマト言葉を話していた。しかし渡来して彼らを支配した人々は・・おそらく朝鮮半島を経由した連中は彼らの言葉を話していたに違いない。華語だ。きっと自分たちの間では華語で話したに違いない。しかし被征服者と話をするときは、被征服者の言葉で話したに違いない。ヤマト言葉だ」
「二つの言葉が使われていたの?」
「ああ、戦後の日本のようにな。支配者は英語を使っていた。そして被征服者の中のエリートたちは英語取得が必須とした。いまでも英語がしゃべれない官僚はいない。・・政治屋は別だ。国を動かしているのは政治屋ではなく官僚だからな」
「なんか‥哀しい例えね」
「ん。それが支配者のロジックだ。・・それでも征服者より非征服者のほうが数として圧倒的に多ければ、全員の使用言語を変えるのは不可能だ・・だからやはり、二つの言語が併用される。
実は朝鮮半島にあった諸国は、何れも政(まつり)ごとで使わる言葉は、長い間華語だった。王族/両班にとって中国語と漢文は必須だったんだ。日本がそうならなかったのは・・半島に住む原住民より列島に住む原住民のほうが、圧倒的に多かったからだろうな」
「最後は"数"勝つ?」
「・・ん。それとね・・これは僕の個人的な印象なんだが・・日本語の持つ呪術性な、これが大きなファクターとしてあったと思うんだ」
「呪術性?」
「ん。日本語の情動性。言魂とでもいうか?ヤマト言葉は世界に類を見ない呪術的な言葉だ。詠む言葉としての日本語は強い念力を持っている。大陸たちの支配者たちはそれに衝かれたと思うな。それが漢詩ではなく和歌が広がった理由だ。日本最古の万葉集は、漢詩の集合体ではなく和歌(ヤマト言葉)の集合体だ。」
「・・なんとなくわかるけど。ちょっとオカルトな話ね」
「ん。子は怪力乱神を語らずだ。その話はこれまでにしよう。・・いずれにせよ、ヤマト王朝内で使われる言葉は、かなり早い時期に共用語が華語ではなくなったことは間違いない。なにしろ漢文を日本語で読めるように工夫したんだ。レ点や順番を振ったりしてな。世界中で、他国の言葉に修正を加えて自国語にしちまったのは、日本人だけだ。
『古天地未剖にしへに あめつち いまだ わかれず、陰陽不分めをわかれざりしとき、渾沌如鷄子まろかれたること とりのこの ごとくして、溟涬而含牙溟涬ほのかにして きざしを ふふめり』でな。漢文の素養を得れば誰でも普通に読める」
「だれでも・・ふつうに・・ね」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました