見出し画像

3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#07

米軍が硫黄島に上陸したのは2月19日。2月25日の暗号名「MeetingHouce」東京市焦土作戦の時にはまだ陥落していなかった。なのでマリアナ三島を発ったB29編隊は硫黄島上空通過を避けた。
当日、B29編隊は硫黄島の遥か東方洋上を進み、北西に転針後、父島西方の西之島上空に集合した。そして体勢を整え日本列島へ向かった。日本軍のレーダー網に捉えないように、編隊は1500ftほどの超低空飛行で進んだ。しかし北緯29度/東経137度37分に達すると一斉に高度を25,000ftまで上げた。(同作戦報告書)そのまま北進。浜松湖上空に達する。そしてそのまま北東へ進む甲府爆撃チームと東京爆撃チームに2分。東京爆撃チームは富士山を視認しながら東へ向かった。
爆撃後は、速やかに房総九十九里浜海岸線まで移動。そのまま北緯35度東経143度まで進み、そこから一路マリアナ島まで戻るという作戦だった。この帰還路も硫黄島上空を避けた。

・・ここで疑問に思うのは、東京空爆の予定でいながら、何故日本列島到着地点として浜名湖を目標にしたかである?おそらくだが・・カーチスルメイは、このコースなら日本軍が空爆目標を中京工場地帯と見紛うだろうと考えたのではないか?太平洋を北進するB29編隊は日本側に間違いなく視認されるはずだ。しかしそれが真っすぐと名古屋に向かうコースだったら・・東京に厳戒態勢を敷かないのではないか?・・カーチスルメイはそう考えたのではなかろうか? 浜名湖上空で90度東にコースを変えても東京までは30分で辿り着く。この段階で攻撃目標が東京だとバレたとしても、とっても厳戒態勢は敷けない。そのためのブラフとして、このコースを採用したのではないか?僕にはそう思える。いかにもルメイらしいやり口である。彼はこの総攻撃で必ず成果をだす必要があったのだ。それほど彼の立場は危うくなっていた・・

積んでいた爆弾は90%以上が収束焼夷弾Incendiary Clusterだった。
最初に開発使用したのは米軍ではない。ソ連軍だった。対フィンランド戦に使われた。なので、当時のソ連外相の名前を取って「モロトフのパン籠Molotovinleipäkori」と呼ばれていた。日本軍は「親子焼夷弾」と呼んでいた。まず空中で親(収束弾)が破裂し、子(焼夷弾)が拡散されるからである。
2月25日の東京市焦土作戦に使用されたのは500lbの収束焼夷弾。この収束弾の中に6lbのナパーム焼夷弾が48個格納してあった。
ナパーム焼夷弾は直径8cm程度、長さ50㎝程度、六角状(蜂の巣の形)をしており、中にはナパーム油と白燐を低オクタン価ガソリンで溶いてゼリー状のものが詰め込んであった。ナパーム焼夷弾は落下しながら燃えると、尻の部分からナパーム油を噴出、これを周囲にぶちまけるという仕掛けだった。
ナパーム弾による火災は水では消化できない。むしろ拡散されて広がる。

・・余談だが、日本軍が民間に奨励した消化法は逆効果だったのである。軍はそれを知らなかったのか?そんな馬鹿なはずはない。略号ICと呼ばれていたIncendiary Clusterにわざわざ、その機能を説明する名称「親子焼夷弾」という日本名までつけていたほどである。ナパーム弾の効果について知らないはずはない。それでも「水はかけるな」という指示はだされなかった。ではどうすればいいか・対案がなかつたからだ。指導者は、市民が焼かれ死ぬことを放置したのだ。

しかし・・カーティスルメイ側にも大問題があった。8000mという高々度からの投擲は初められたばかりだったのだ。収束焼夷弾は地上1500メートルで破裂しないと効果がない。このことはエビデンスがあった。つまり高々度からの投擲の場合、6000m以上破裂しないで落下する必要がある。散開用信管の爆発時間は6500/9.8=663秒≒11分近く置いた後に爆発しなければならなかった。これは極めて至難で、かなりの焼夷弾が不発乃至効果がない爆発をしていたというのが実情だった。このこともカーチスルメイの焦りに拍車をかけていた。

画像1

画像2


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました